2006年10月28日

目を醒ますだけなんだ

朝からサイクリングを兼ねて河原に出かけその後、石の買い付けを兼ねて午前中に街を散策。
買い付けを済ませると早々と帰宅した。

1011:2006
vol.3
I am woken up.
photo : dozen/Ren

428b.ren.jpg

それはムラウスのお迎えがあるから。
  

数日前にまたオースからのアクセスが入り招待を受けた。
今回もムラウスが待機しているとのこと。
招待日は今日。
関連日記⇒高次たちから知らされた『ソースセンター』
なので早々に帰ってきた。

前日からの流れを観ていると、龍の持ち込んだ大量の紙の処分が、いつの間にやらエゴ解放の吐き出し処分に変わり(かなり楽しかった)、招待の今日は朝からその処分を済ませている。

午前中、街の散策途中に早くから開けている本屋で珍しくも本を購入し、休憩を取ったカフェでその本からの素敵なエッセンスに遭遇。
そこから話がさらに展開し、龍と充実したスピカフェを楽しむことができた。

いい感じだと思った。

なぜこんな風に観察しているかというと、招待は目を覚ましたその朝から、いや前日から、いやすでに数日前から実は『事』が始まっている。
それにようやく気づきだしたのだ。
特に大事なのはその当日。

これが分かったのは過去の招待を振り返って分かったのと、この招待がある意味イニシエのようだと気づいてからだった。
イニシエも同じ。

イニシエの花を買うときにはすでに始まっているし、いや朝目覚めたときから、いやいやさらにその数日前から『事』はもうすでに始まっている。

イニシエで何を味わうかと同じように、招待のプロセスに何を味わい感じるか、イニシエ自身で何を浮上さすかはもうすでに始まっているのだ。
さらにどんなイニシエを味わうかも、人それぞれ。
イニシエを味わう人は、自分がされたやり方がイニシエだと思っているだろう。
ところが現実はそうじゃない。

イニシエには、本当にさまざまなやり方が投じられている。

ヒーリングのみ、あるいはイニシエが受けられるよう調整のみ、ディクシャのみや、ダルシャンのみ、あるいは軽くハグのみ、さらにはインチャを浮上させることや、男性性や女性性の融合が行われる変容を起こしたり、男女をより結びつけ深く探求に入れるようにしたり、エンティティの解放や幽玄の解放、コードを抜くことや新たなエネルギーの中に存在できるようにしたり、霊的に手術が行われたり、ルーツカルマのエネルギーからの緩和や生命体からの関与をはずすことや、より深く本来の自分への融合や、より内なる情報を取り入れることができるようにしたり、手放す準備への移行や、それはもう事細かく取り上げればきりがないほど。

すべては、今以上に本来の自分、無限なる愛への帰還へいざなう。
それを覚醒やアセンションとも述べてもかまわない。
進化や成長でもかまわない。
これらすべてがイニシエーション(通過儀礼)だ。

エネルギー的な視点から言えば、なおさらきりがない。
どんなイニシエを受けるかは、その人でしかない。
自分しだい。
肉体を離れ浮遊しイニシエを味わう者さえいる。
そしてその結果をさらにその後に味わっていく。

招待もまるでそうなのだ。

その中で特に当日が大事。
何が大事かというと、内的なものでしかない。
だから内的に、霊的に、自分や龍がどのような状態でいるかを観察する。

招待というイニシエ(通過儀礼)が目前に迫るほど、自分の内にあるものが外へと浮上(解放)しようと進んでいく。

今日はいい感じだ。
龍もエゴってない。笑
変に敏感にもなっていない。
これはもしや行けるかも・・・と観察しているわたしがいる。

そして帰宅後の流れもとてもナチュラルに過ごせ、2人ともごく自然にそろそろ始めようかとなった。

2人でベッドに横になり手を繋ぎ瞑想に入った。

するとグッタイミングだったようでわたしの変容が始まった。
『時』がふさわしかった。
自分の顕在で勝手に変容を起こすことはできない。
ゆえに、いくら横になって体制を整えたところで『時』がふさわしくなければどうあがいても変容は起こらないのだ。

すぐさまシフ(名もなきスフマー)の誘導が始まった。
こんなこと(誘導)は初めてだった!

その誘導は、龍に対し行われている。

わたしは霊的なわたしへと変容しているので、いくら誘導を聞いたところでこのわたしが自分で勝手に身体を動かすことはもう出来ないし、それより霊的なわたしと調和し続けることに力を注ぐ。
大切なことは本来のわたしにゆだねること。
そうすることで、わたしの肉体に必要なことはこのわたしが何とかしなくても霊的なわたしが動かしていく。
その動きにさえゆだねる。
するとスムーズに事は流れる。

まずは深呼吸を促すことから始まり、さまざまな誘導の流れがあったが残念なことに今ではもう忘れてしまった。
ひとつ覚えているのが「サフラン色の道」だった。

なぜ印象に残っているかというと、龍がサフラン色をすぐには思い描けなかったからだ。
龍がそれをその場で口に出したわけではないが、思い描けずに戸惑っていることがこのわたしにはすぐに分かった。
(あとで龍からこのことを言っていた。)

誘導が進むにつれ驚くことが起こった。
それは龍がどんどん軽くなっていくということだ。

もちろんわたしは変容しているし、霊的わたしに調和しその状態に入っている。
誘導も続けているが、このわたしは同時に龍自身の肉体が軽くなっていくのを感じていた。
繋いでいる龍の手も、まるで風船のように重力がなくなっていくように感じられ、龍の肉体そのものも本当に浮いていくんではないかと思えてしまうほどだった。
これは決して大げさに書いているのではない。
リアルな事実。

実際に軽くなっているんだろうか。
それとも光の密度が変化していっているんだろうか。
どちらも同じことを指しているのかもしれない。
とにかくわたしは驚くしかなかった。

このことについても、あとで龍からわたしに言ってきた。
「俺、マジで軽くなっていったんだよ!」と。
あとから聞く龍の話は、変容の最中にこのわたしが感じていたことを立証してくれていた。

驚きながらもさらに誘導は続く。

すると龍が眠り出してしまった。
このわたしは「まずい」と感じた。
眠るということは抵抗(受け入れることができない)しかない。
もっと深い内的な状態で受容し浸透さすすべに移行してしまったとしか考えられない。

すると今度はそれを起こすかのように、息子が部屋に入ってきた。
わたしたちの様子を見て、「瞑想中かどうしようかな」と戸惑っている空気が伝わる。
このわたしは何の用事だろうと思った。

するとシフが誘導を留め息子に、
「自分で食べなさい。自分でできますね。」と言った。
息子はそれに対する返事もすることもなく出て行った。
このわたしは返事もしないなんて・・・と感じていた。
それとも何も言っていないのに言い当てられたことに驚いて出て行ったのかもしれない。
(あとであの時お腹が空いたから入ってきたと聞いた。)

そんな数分の出来事で、龍はどうやら眠りから戻ってきたようだ。
その後ほんのしばらく誘導は進められたが、唐突に「休憩します」とシフは伝えた。

ゆっくりと現実に戻ったわたしは、この間にトイレを済ませておこうとベッドから立った。
トイレをしながら考えていた。
あそこで息子が入ってくる理由はなんだったのだろうと。
確かにそのおかげで龍は眠りから戻ってくることができた。
でも理由は、それだけじゃないような気がした。

この5次元への招待へは、あらゆる執着を手放しなさいと言われている。
執着がこの移行への障壁になると。
ゆえにここ最近、お金や血縁の域、つまりは人にとっての3次元での究極の恐怖(執着)にまで真実が及んでいる。

わたしは息子への執着をまだ持っているのだろう。
そして息子は、わたしのインチャのエッセンスでもある。
また、幼い男性性も。
さらには息子の用件は食べ物だった。
食欲・・・か。

ある日、シフに言われたことがある。
「食べすぎです。そんなに食べなくても生きていけます。」と。
わたしは見た目ほど食べない。
普通よりは明らかに少食。
それでも食べすぎだと。

シフは息子に言った。
「自分で食べなさい。自分でできますね。」と。

これには、自分で自分の必要を満たすという自立の意味もあるし、逆にまだその状態に至っていない、自分で満たそうとしない甘えがある現実も指摘している。
これらはわたしの未熟な男性性のエッセンスでもあり、インチャのエッセンスでもあり、さらに食に直結させれば、自分自身で生きれる・・・、つまりある日シフに言われた
「食べすぎです。そんなに食べなくても生きていけます。」にも密接に関連してくる。

イニシエのように、招待のイニシエ(通過儀礼)も愛ある課題を提示される。
内にあるものが浮上する。

トイレから戻ると続きが始まった。
すぐにシフは龍に、
「眠らないように」と注意を払った。
「呼吸に意識を戻すように。呼吸のさまを味わいなさい。」と。

しかし誘導が進むにつれ、龍は再び眠りに落ちてしまった。

そこで龍の課題は『瞑想』となった。
自分自身を振り返り、日ごろの瞑想でも必ず寝てしまう自分を思い出し、瞑想の成熟を心がけることを龍は課題にした。

龍が眠りに落ちたあと、誘導はなくなった。
そしてわたしはわたし自身だけにフォーカスすることが始まった。

それまでも誘導をしながらさまざまな映像をわたしは垣間見ていたが、誘導がなくなってから一気に変容状態が進んでいった。
これはエネルギーの変容ではなく、エネルギー変容の土壌上で瞑想のさらなる深い変容意識に入っていくようだった。

そこで観たのは、いや、体感したのは、自分の家だった。
本来そこに元々あった、すでにそこに存在するわたしの家だった。
このわたしが住んでいるこの京都の家ではなく、本来のわたしの家。

家の中なのに向こうには森が見える。
壁が在るのに壁がすべて透明で、壁の向こうにある森がそのまま見える。
まるで壁などなく、家の中からそのまま森に踏み込めるほどリアルなさまで森がすぐそこに存在している。

その透明の壁の手前、左側には、木でできたデザイン性の優れたとてもシンプルな椅子が、1客置いてあるのが見えた。
わたしの目から見える範囲の部屋は広く、とてもシンプルだった。
ナチュラルな自然を意識した素材から漂う空間のように、とてもシンプルなのに暖かさを感じる部屋だった。
そしてわたしの目の位置が、なぜか自分のベッドがある位置だと分かった。

わたしはそこで心底感じた・・・。

わたしはただ、目を覚ませばいいだけなんだと。
まるで眠りから醒めるように、ただただ、目を覚ますだけでいいんだと・・・。
わたしはここで眠っている。
そして本当のわたしはここにいるんだと。

わたしはとてもよくできたリアルに感じる夢の世界(この地球で生きている世界)を味わっていたに過ぎなかったんだと


それをひたすら、ただただ実感していた。



本当の自分を取り戻していく覚醒イニシエーション
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posted by dozen/Ren at 01:11| 0610 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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