2006年11月09日

融合の質が変わる

変容が継続して、ついに泣きに泣いたときに感じたのは、融合の質が変わったこと。

1109:2006
vol.4

Quality of fusion changes.
photo : dozen/Ren

448b.ren.jpg

このときわたしは過去世の自分たちを融合する、つまり受け入れることだった。


その中で今生でも名前が知れているある者を受け入れられずにずっときていた。
何度もそのための融合の変容が今まで行われてきているが、それでもなかなかだった。
少しづつ少しづつ。

そういう受け入れがたい事柄の変容を行うときは、受け入れがたいと思っているのがこのわたしであれば、このわたしを決まって瞑想状態に入れられる。
このわたしではなく無意識の領域のわたしであれば、そちらのわたしが瞑想状態に入れられる。

無意識のわたしが根源の話に耳を傾け、何度もやりとりをしているのも聞いている。
優しく悟すかのように。
しかしそこに説得やコントロールという類のものは存在しない。
ただあるがままに触れられ、無意識のわたしが変容を重ねていく。

受け入れがたい事柄は何も過去世の人物だけではない。
今生のひどいトラウマもそうだった。
そういうトラウマは、このわたし自身にとって記憶がない。
失われた記憶だ。

これらを融合するとき、つまり受容するときに行う変容は、このわたしが瞑想に導かれる。

このときの発狂ぶりと恐れは、文字では表せないぐらいひどいものだった。
尋常じゃない。
この顕在のわたしは、その異常なまでの反応ぶりを他者かのように見守り観ているだけだった。
その痛みや恐ろしさは、このわたし自身には何ら響かず影響を受けないまま。

わたしがややはっきり覚えているのはこの辺までで、そのあとどんな状態になったのかは、霧の中にいるようで覚えていない。
ただ、無意識のわたしはそこから逃げることをせず必死に受容したのではないかと感じる。

受容を緩和させながら融合は行われていくのだ。
変容によって傷つくことはない、とはっきりわたしは言える。

今回、受け入れがたいわたしの過去世の融合は、今までと違った点がある。

それは、人事じゃない・・・という点。

今までは、その過去世の人物自身や感情、体験をこのわたしが味わうことはなかった。
無意識のわたしが受容を恐れ、泣き叫んでいても、このわたしには何ら影響がなかった。

そう、誰かしらのインチャの体現をするときと同じ。
さ迷う霊との対話や、わたし自身ではない高次たちの存在がアクセスするときと同じ。
アクセス(表現)に沿うことはあっても、あくまで傍観者であり見守るだけであり、何ら影響はない。

体力は消耗されるが、体力以外の疲れはない。
終わったあとの精神状態は、逆にスッキリしている。

ところが今回の融合(受容)は、このわたしも無意識のわたしも何の隔たりもなく感じたのだ。
無意識のわたしの涙は、このわたしの涙そのものだった。

もっと厳密に言えば、顕在のわたしが消えていた。
いや、このわたしと無意識のわたしが同化したとでも言おうか。
このわたしが溶けた・・・とでも言おうか。
わたしは丸ごと無意識そのものが、わたしだった。
そのわたしを丸ごと肌で心で感情で感じていた。

泣いた後のこれら余韻からなかなか戻ることができず、すねた子供のようにしょんぼりしていた。
認めたのだ。
抵抗することをあきらめた・・・と言ったほうが合っている。

そんな心境のままだった。

無意識のわたしは、この今の今生のわたしの無意識であって過去世や他の自分の無意識の部分ではない。
時間が経過するにつれ、この今の無意識のわたしが段々溶けていき、さらにもっともっと透明な純粋な曇りがないわたしを、ただ感じ始めていた。

無意識領域の点・根源・内奥にあるもっともクリアな部分。

そうして時間がすぎると、だんだんとゆっくり今のこのわたし(顕在)が顔を出し始めた。
いつものわたしだ。

しばらく無意識の領域で時間を過ごしたことが、逆にこのわたしに違和感を覚えた。
いつものわたしに対し、「嘘だ!」と感じた。
「本当のわたしじゃない!」と。

表の世界に生きるため交流するためにいる「部分だ!」と。
そうリアルにわたしは感じた。

するとどうだろう。
その顕在のわたしと交流する龍の会話や言葉が、とても薄っぺらい表層でしかない・・・と感じた。

本当の龍じゃない。
本当の心で会話していない。
本当の言葉がない。
すべて表面だと。

これらは全部、顕在でしかなく、部分でしかなく、都合のいい愛(本当の愛より幼い、未熟)だと。
本当の龍、本当の愛が、オブラートに包まれ、ここに現れていない、表現されていない。そう感じた。

それは会話する龍だけでなく、この顔を出す顕在のわたしに対しても同じことを感じていた。

誰もがそうだ。みんなそうだ。
みんな本当の自分、本当の愛をオブラートに包んで、その表面にある顕在で会話し交流している、と。

そのオブラート、フィルターに包まれてしまっている本当は、純粋な、純真な、無垢な子供のようだと感じた。

それは子供のような振る舞いを指して言っているのではなく、とても幼い子供に見受けられるかのような部分、を指している。
そこを指しているのであって、何も子供というものを指しているのではない。

わたしはこの部分が多いと龍からも、高次たちからも言われている。
高次たち曰くは、それが多いのは初めからの仕組みだと。
龍はその部分を指し「インチャだ!」とわたしをからかうが、この体験をしてはっきり言える。

それはインチャでもなんでもない。
あまりに純粋だからこそ、それが見受けられる子供と混合してしまい、インチャにしてしまっている。
何の偽りもなく、理屈や理論や理性でごまかすこともなく、その部分で感じるそのままをストレートに表現するため、子供かの反応に勘違いしインチャだとしてしまっている。

もちろんそれ以外はインチャだ。
今生的インチャぶりもあれば、スピリット的インチャぶりもある。
でもその純粋さまでも一緒にインチャにしてはいけない。

人には、この純粋な部分がある。必ず。
それが子供かのような反応を見せても、必ずしもそれはインチャとは言えない。純粋な部分だ。
霊的に汚れのない部分。まだ何色にも染まっていない部分。エゴってもいない。いいも悪いも何もない。
これが真の意味のあるがまま・・・なのかもしれない。

その部分をどれだけオブラートに包み込んでしまったかは、人それぞれだ。
今生でまったく顔を覗かせないぐらい、ぐるぐる巻きにフィルターをかけてしまっている人もいるだろうし、そうじゃない人もいる。

顕在がある理由もよく分かる。
顕在がないと、この世界では生きていけないのだ。
こういう物質的に偏った社会が成り立たない。

誰もが顕在を取っ払い、無意識の領域の自分(無意識の領域の部分ではなく統括した自分)で生きるなら、この光の密度が濃い世界では生きられない。
もっと密度が薄い領域でなければ。

無意識の領域には、たくさんの記憶が保管されている。
それらを包含し生きる魂は、そのままではここでは暮らせない。
その究極をハイアーセルフと言うのだろうか。

スピリットがやっているように、魂そのものである自分も、さらに自分が成長するように必要な部分を結集し、今の存在としてここにいる。

スピリットも魂も、この自分もすべて繋がっていてワンネスでもある。
より密度が濃く具現され誰もがここに存在している。

言葉や用語が正しいかどうかわたしは知らない。
だが、これらも変容の体験を通してわたしが学んだことであり、気づきであり、感じたことだった。


本当の自分を取り戻していく覚醒イニシエーション
愛の拡大支援クリックご協力お願いします^−^v
人気blog  精神世界  哲学ブログ  ブログくつろぐ


posted by dozen/Ren at 21:21| 0611 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。