2006年11月08日

真の・・・ゆだねる

今日TUTAYAで龍が選んだDVDが『ノアの箱舟』。
内容は聖書にあるものをできるだけ再現して作成したとあるが、わざわざ観るにはオススメしない。

1108:2006
vol.2
Noah's ark.
photo : dozen/Ren

449b.ren.jpg

映画自身に中だるみしながら観るうち、なぜわざわざこの映画を引き寄せたのか・・・。
そこに興味が湧きだした。
 

ちょうど『7』という日記を書いたところだ。
http://ryu-and-ren.seesaa.net/article/26977586.html
7で思いつくのは、ラッキー7、週。
今の1つのサイクル。これを物質的に置くなら霊的には13か、と思った。
他に7つのチャクラ、クラウンチャクラ、聖書で言われるところの創造の期間だ。

そうぱらぱらと思いが巡ったとき、そう言えばこの映画も聖書の話で、新たな地(創造)に向かうための、それまでのそのためにあるプロセスの部分を映画にされているものだ。

洪水で地が一掃される。
そこにある悪や闇、エゴというものを一掃し、新たな地で生きていく新たな創造に至るプロセスが描かれている。

この内容、流れというもの自身を霊的に観たとき、もしやこのずっと続いた変容を指しているのではないかと感じた。
または、この変容における大事なエッセンスがあるのではないか・・・と。

この聖書自身の内容が真実だかどうかにはまったく興味はない。
興味があるのは、なぜ引き寄せたのか、どんなエッセンスがあるのか、わたしにメッセージとして何を言わんとしたいのか・・・、ただそれだけだった。

そして分かったのは、『ゆだねる』。
これのみに尽きた。

ゆだねる・・・も、半端じゃない。
全幅をゆだねる・・・の、ゆだねるなのだ。

言わんとするゆだねるの質が、本当に半端じゃない。
盲目的にゆだねる・・・、でもない。

全部、すべてをもってゆだねる。
まったき信頼。

自分をだ。自分すべてをだ。
内奥される自分のすべて。

ハイアーセルフもしかり、スピリットもしかり、根源もしかり。
あらゆるすべての自分をだ。

そこでもし顕在を持ち出すものなら、まず、ゆだねることは達成されないという真実。
真にゆだねることに、顕在での理解や納得は障害となるいう真実。

その理由は・・・

ゆだねることは、必ず顕在での理解や納得の、前にやってくるからだ。
顕在での理解や納得のあとに、ゆだねることが訪れているのではないということ。

真のゆだねる・・・とは、これに尽きる。

自分が理解できないこと、自分がまだ納得できないこと、それでも実際にゆだねることができるのか。
実際に、行動できるのか・・・ということだ。

つまりこれは、顕在にはいっさい頼らない姿勢を物語っている。

理解し納得したことなら、誰でも行動は起こせる。しごく簡単なことだ。

しかし、真にゆだねるとは、そういうことではないということ。
そういう安易なレベルに、真のゆだねる・・・は存在していないということ。

顕在に頼らないなら何に頼る。何を信頼する。
それは・・・

真の自分。自己の霊性しか存在しない。

感覚、直感、なぜだかなんて理由もない確信。
これらもその領域に入るだろう。

内なる声、ハートから湧き起こるもの・・・他にもまだまだあるだろう。
自己探求の土壌には、霊性が溢れている。

単にゆだねるではない、真にゆだねるとは・・・

顕在の領域を超えた、霊性の領域に存在するものだということ。


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posted by dozen/Ren at 19:19| 0611 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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