2006年11月12日

昼前に起きた激しい変容後(11時11分含)、リラックスがてら映画を観ることにした。
『パイレーツ・オブ・カリビアン』。

1111:2006
Axis.
photo : dozen/Ren

457b.ren.jpg

面白い。
主人公の海賊のフラフラしたとってもラフな姿勢が心地いい。
だからと言って彼はバカじゃない。
大事なものを手に入れるため守るための洞察や行動力は抜群。
 

彼を表面で据え判断した者たちは、彼を見下げあざ笑う。
だが彼の内奥を観る者は、彼に惹かれていく。
良心に嘘をつくのをやめ、心の声に正直に生きようと変化していく。内に感じるものを信頼しはじめる。
そしてついに自分が感じるまま正直に行動し生きる。

つまりこれは自分の内と外が同じだということだ。
外の動きを内に一致させる。

この映画を引き寄せる他の意味も気になった。
他にもエッセンスやメッセージはありそうだ。観終わったときそう思った。

まず自分にポン!と浮かんでくるキーワードを観ることにした。
それは『軸』。
関連日記⇒内なる中心にいつづける

映画の中によく出てくる印象に残ったシーンを観ていくと、どれにも共通していることが軸だと分かった。

最初に主人公が小さな船の帆の軸、その長い棒の上から海を眺め、遠くに見える港を見ているシーンだった。
次に現れたシーンは、船に海の水が入り込み、小さな椀か何かですくい出している様子。
船が長旅でボロボロなのだ。

彼の乗るその小さな船が港に着く。
桟橋にポンと、その桟橋の高さと同じような高さから彼は降り立った。
うん? いくら小さい船だからといって普通なら船の中から船を乗り越えて桟橋に足を着けるだろう。
それなのに彼は、陸地から陸地にポンと飛んだかのように渡った。

なぜに?の答えを見せるかのように映像が流れる。
その答えは、船が港に向かって実はどんどん沈みながら到着したのだ。
帆の軸の上の先端に立っていた彼は、まるでエスカレーターの上から下に運ばれたかのようにポンと桟橋に降り立ったのだ。

船は見事そこで綺麗に沈んだ。

このシーンから、人は自分の軸にちゃんと立ち続けることで、自分で自分を救うんだなと感じた。
軸に立ち続けることで、必ず地に足をつけることができる。
いつ波で揺れ、また嵐が起こるか分からない海から、自分をしっかり支える安定する地に向かえるんだなと。

海の上でバランスを保ち続けることは大変だが、地の上でバランスを取るのは容易になる。
自分の中心である軸に立つことでもたらされる恩恵は大きい。

次に軸に関係のあるシーンは、鍛冶屋でのロバが引く歯車のようなもの。
主人公は港で船を盗もうとしたことから手錠をはめられた。
逃げ飛び込んだ鍛冶屋で見つけたその歯車のようなものを動かし、その間に手錠の鎖を挟むことで切れた。

この歯車のようなものも軸が中心だった。
その軸である棒の上に水平に歯車が組み合わされ、ロバが軸を中心にぐるぐる回ることで歯車が上で回るのだ。

軸に何かしらを組み合わせることで、そして必ず軸を自分の中心にして動く行動することで、自分を縛っていたものを解き放つ・・・という意味だ。

その次は荷車の上で戦うシーンがあった。
届け物を済ませた鍛冶屋職人が戻ってきて、役人に追われている主人公を見つけた。
そこで戦いが始まる。

その荷車の両端にそれぞれ立ち戦うのだが、シーソーのように右に左にと傾く。
まったくバランスが取れない。

霊的に観ればそれは、愛(真の無限の愛ではなく都合のいい愛)だエゴだと自分の状況や他者や外との関係しだい、自分の反応しだいで簡単にどちらにでも傾きながらいる心のさまだと感じた。
愛にもなれば簡単にエゴにもなり、シーソーのようにギッコンバッタンやっている。

映画では戦う相手の安定をいかに奪おうかと、足元が落ち着かないよう立ち位置をコントロールしながらギッコンバッタンやっている。

愛もエゴもいかに相手の安定を奪おうかと、自分の位置をコントロールする。わざと、バランスを崩そうとしかけにいくことも、もちろんある。

そこへ真の愛(無限愛)の想いをエネルギーに、思いっきりシーソーに飛び込んでジャンプすれば、その勢いに呑まれてもう片方に陣取っていたエゴが吹っ飛ぶ。そんなシーンもあった。

逆も現実にはあるだろう。闇のパワーをもって思いっきり飛び込めば、もう片方の愛が吹っ飛んでしまう。

おだやかにそのシーソーを安定さし、両者がしっかり立てるようバランスを保つためには、お互いが協力し合わなければならない。
互いの受容だ。これらがあって初めてバランスは保たれる。

しかもそのバランスは、必ず軸を中心にバランスが取られている。
その軸を無視し、勝手な動きを取れば、それはもう簡単にバランスは崩れる。

シーソーの傾きがどちらかで起これば、保つには片方もそれに合わせなければならない。
合わせるためのバランスもあり、そのバランスを欠くとすぐに始まる。
ギッコンバッタンが。

どちらもそのバランスに意識を向けない限り、ギッコンバッタンは激しいまま。
合わすことにどちらかがわざと抵抗したりすれば、今度はコントロールが始まる。バランスを取るために。
わざと乱すものへ合わせなければならなくなる。

互いが無茶をすれば崩壊。

波が激しい人というのは、心の中で内の中でこういうことが起こっている。

牢屋に閉じ込められたその主人公を、鍛冶職人が助け出すシーンがあった。

鍛冶職人はその牢屋を作るときに手伝った経験から、どうやればそのドアがはずれるかを知っていた。
つまり彼は、自分の体験から得たものを知識に変換させ活かした。

近くにあった大きな木の板を牢のドアのある箇所に挟み、てこの原理でドアを浮かしはずしたのだ。

木の板は、軸をどこに位置さすかによって、どこにバランスの重きを置くかが変わる。
板を水平にし、その真ん中を軸にすればシーソーになるわけだ。

彼はドアを開けるために軸の位置を端にした。
もう片方の端に自分の全体重を飛び乗るかのように乗せ、てこの原理で重い鉄のドアを持ち上げはずしたのだ。

つまり、救うために自分の軸をコントロールすることで、本来の自分以上の力を発揮し、目的を成し得ることができる、と感じた。

主人公には自分にとってある大きな目的があり、それに向かう映画の内容自身にも軸が描かれているなと思った。その展開・流れに軸が設けられているのだ。

目的を軸として、彼は巧みに役人や鍛冶職人などを動かしていく。
必要な船も人材も手に入れていく。
つまり、軸を中心に、またその軸の位置を変えることにより、見事に必要なものや人の動きまでも、軸(目的)に向かって引き寄せていく(動かしていく)。

人の動きや物事の流れをうまく動かしていくには、例えば人ならどうすればそういう動きを取りたくなるかを知っている。
それを軸を中心に、どう自分自身が軸に至ることになるか道を創るのだ。

これには3つの視点がいる。
軸自身から観る視野と、周りから軸を観る視野と、その両方を眺めることができる視野と。
板の真ん中で軸になるシーソーにもなれば、端で軸になりてこにもなる。さらには軸の上に立つことで眺めることもできる。
どれもが軸だ。

この映画を通し、わたしが引き寄せたエッセンスまたはメッセージは、
『表面ではなく内奥・表面ではなくその奥にある背後や動機』。
『内と外の一致』。
『軸』。

常に自分の軸(中心、芯、点、今)にいる。
軸を巧みに変化させ活用する。
その変化、つまりその軸の位置(上・中心・端など)の変化を自分でコントロールできること。

これも今回の一連の変容の意味のひとつでもあり、今の状態でもある。
自分を知るエッセンスは、常に今に在る。
何ひとつ無駄な具現はない。何ひとつ無駄な出来事はない。
すべては内の反映であり、自分の内の具現を物質界で味わう。





本当の自分を取り戻していく覚醒イニシエーション
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posted by dozen/Ren at 13:13| 0611 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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