2006年11月13日

class5のイニシエ

彼女にとっては、11日は仲間たち(class5)が集まる日だった。
その集まる理由は、『いかに真実を拡大していくか』ということだった。

1111:2006
vol.4
Class5 1111.
photo : dozen/Ren

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それが仲間たちの中から起こり、そこでトリンちゃんは集まるための場を進んで自発的に提供した。
 

ところが間近になって次々とキャンセル。みんながみんな揃って予定が立たなくなった。
集まる案が提示されたときには偶然(必然)にも1111ということも拍車をかけ、みんなはかなり盛り上がっていた様子だったにも関わらず。

しかしキャンセルを機に、トリンちゃんにとっては流れるかのようにdozenに逢うまでの事が始まり流れる。

その意味を彼女は顕在で理解しようとしたりはせず、流れを霊的に据え、霊的に流れを観たりした。

彼女はすべてそれにゆだねることにした。

もし、顕在の理解に執着していたり、集まる日だったのに・・・ということに執着していたり、さらには霊的にこうなる流れはなんだろう?と、霊性に頼っていなければ信頼していなければ、もし抵抗していたならば、事はまったく違う結果を生み出していた。

違う結果を生み出し(創造し)それを過ごしていた(歩んだ)からといって、それも無駄ではない。
それにも霊的に意味はある。

だがその意味はまったく質が違う。

ゆだねることでその愛を味わい学び享受するのか、執着し抵抗することでそのエゴを学び享受するのかでは、どちらも霊的土壌のものではあっても、その質はまるで違う。

彼女は顕在への信頼ではなく、霊性への自己の信頼に自分をゆだねることによって、仲間たちの軸になるdozenに逢うことになったのだ。
真実を生きることで自然にその真実を拡大することになったdozenに。
関連日記⇒http://ryu-and-ren.seesaa.net/article/27194791.html
     http://ryu-and-ren.seesaa.net/article/27304772.html

つまり彼女は自分の中心、その軸にいつづける(立ち続ける)選択をしたことで、自分の目にし味わう具現界で表現されている、真実を生き拡大する仲間である波紋を及ぼした点・中心・軸であるその張本人のdozenと11日を過ごすことになった。

具現は自分自身の内を表し教えてくれる。
自分を知ることになる。
自分を知ることでさらに愛は深まり霊性は深まる。それは愛ある帰還にさらに進む。

また視点を変えれば、彼女の内に起こっていることすでに在ることが、具現を創造する。

具現されたこの物質世界の日常の中で霊性にゆだね過ごすということは、自分の内の状態に在る状態を過ごしているも同じ。

内と外が一致しているのだ。
だから物事がすべてにスムーズに事が運び、流れる。

内と外がちぐはぐであればあるほど、この逆が起こる。
物事はままならず、スムーズではなくなり、日常や人生は不快きわまりないだろう。

内と外を一致して道を歩み過ごすほど、あるがままなことはない。
ずれがないから心地いい。
ギフトや恩恵、霊的財産はふんだんに巡ってくる。

その巡りの流れを止めていないからだ。

逆を言えば、内と外が一致せず、逆らえば逆らうほど、それら恵みが巡る流れを自らストップしていることになる。
愛への霊的帰還に逆らい、その逆の方向へと歩むことにもなる。

これらの意味から踏まえて、なぜ他の仲間たちは集うことができなかったのか。
自分たちから率先して提案をし『いかに真実を拡大していくか』を話し合おうとしたにも関わらず。
そのための場は用意されていたにも関わらず。

しかもその『場』だけは、最後の最後までキャンセルということはなかったというのに。

『いかに真実を拡大していくか』を自ら掲げながら参上することができなかったものたち。
拡大は創造でもある。
つまり、『いかに真実を創造するか』という意味だったのだ。

これは実はイニシエだった。11日のその予定自身がclass5用のイニシエだった。
受けたいと申込んだが、受けられなかった・・・というやつだ。
いや、受けないことを選択した・・・という方が合っている者もいただろう。
準備ができていない。受けるに至る段階にはいない・・・、そのタイミングを自ら選択しなかったということ。

内と外とのズレ。
自分の中心にいず、軸に立っていない。
愛の選択ではなくエゴの選択。
愛の動悸ではなく、エゴの動悸。

これらが気づかなくとも自覚がなくとも、みなが各々動き出している真実の拡大だ!という動きの背後にあるものだ。
表面の内奥、表面ではなくその背後。
ゆえに『いかに真実を拡大していくか』の集いには集まれなかった・・・ということだ。
これが現状。
(詳しくは今月のclass5にて講義があります。)

しかし即座にその中から気づいた者がいた。
メールで「蓮ちゃん。やっぱり昨日は集まるべしだったんじゃないかと思ったんだ。」と。
この『やっぱり』は意味あるエッセンスだ。

この集いの日は、突然に決まったわけでもなんでもない。
この日までにはずいぶん時間のゆとりはあった。
そして1日には24時間という時間がある。
さらにイニシエというものは、それに向かうまでの日々の中ですでに始まり出している質をもっている。

たとえこのように時間が過ごせなかったとしても、各々の選択、起きた事柄の理由の中で、各自は過ごす意味があったのだろうと思う。
人は必ず自分が学ぶ所にいる。

いかに物事ひとつ、具現ひとつが霊的に深いか。

ここ地球で生きる霊的深さは計り知れない。

起きる事柄を安易に流してしまったり、探求の材料にまで取り上げなかったり・・・というのは、宝の持ち腐れだ。ほんとにもったいない。

どんな事柄にも、どんなことにも意味がないものは何ひとつない。

ここ(地球)が、自分の生きる現状(毎日)が、どれだけの霊的巧みな土壌でできているか。
どれだけ実に霊的深いものであるのか。

自己探求とはそういうものを指す。

そしてまたそういうことに気づき、生きる(活かす)ことだ。
自己探求は霊的そのものであり、愛への帰還の道をいざなうそのものだということ。

自分を知るというのが、どれほどの恵みの享受かを、ぜひその深さを1人でも多く堪能してほしい。

たとえ顕在で理解していようがいまいが、目に見えてわからなくとも霊的には現にそうなのだ。
目に見えないところではそうなのだ。

目に見えない領域は素直さがいざなう。

探求においていかに素直であるということが大事か・・・と、わたしが口を酸っぱくして言うのもそこにある。
これこそオープンハート。カァクがディクシャで言ったオープンハート。
エゴがあってもイニシエを受けられる理由だ。

だから11日、別れ際にハグが起こった。
わたしの右手がハートチャクラにわざわざ置かれたのを、背中で感じただろうか。
11日の集いのイニシエ、その意味は『真実がさらに拡大=創造される』という内に対する霊的意味(エネルギーが注がれる)があった。

オープンハートであるかどうかも、人の霊的成熟というものも、表面で理解できたり、目に見えてわかる領域では決してないということ。


他にまだある霊的意味:

霊的トリンちゃんが自ら望んだ役割が『拡大』を担うこと。
仲間たちの中で拡大の軸になるのは霊的彼女。
その霊的彼女が仲間たちと集うイニシエを味わえないとなったらどうするか。
さらに全体の軸となる霊的存在に逢い、集うイニシエを味わおうとするのは必然。
内なる霊的存在は、当然その具現を引き寄せる。それに対し顕在のトリンちゃんはゆだねた。

他にも彼女自身にはギフトがあった。
泊まるホテルは修ちゃんへの仕事の依頼主により無料。
移動する新幹線代は修ちゃんが出してくれた。
つまり彼女は、何らお金というツールをかけずに、京都で霊的意味ある集いを味わったのだ。


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posted by dozen/Ren at 01:01| 0611 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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