2006年11月30日

わたしの男性性と無限の愛

今日はゆっくりスタート。
お昼に龍がやってきていろいろと互いの気づきを話しながら、奉仕に取りかかる。

1130:2006
My male sex and love of eternity.
photo : dozen/Ren

478b.ren.jpg

ブランチがてら近くの喫茶店で和む。
そこで龍の話をいろいろ聞いているうちに、なぜか観えてきた。
 

はっきりこうだ!・・・と分かったのではなく、どうやら男性性というものにタッチし出したような具合。
感覚だ。感覚で受け取る。
それを今度は家に帰って言葉や文字、顕在の理解に落とし込もうとワクワクした。

単純に男性性は与える。女性性は受け取る。
男性性にとっては、与えることが自己受容であり、女性性は受け取ることが自己受容に繋がる。

顕在(具現)の男性は、3次元の意識や真実に縛られているから、どうしてもパワーに偏りがち。
しかし内在の内なる男性性は、顕在(具現)ではないのでフォース。

フォースの男性性が、この3次元に具現すると、この世界の特徴にどうしても縛られる。
それは3次元の肉体というボディの仕組みがそう在り、そのボディを元々、魂(男性性含)が司り活かすはずが、ところが逆にボディに司られ支配されている状態に至っている。

例えでいうなら、お酒。お酒は薬にもなれば毒にもなる。
つまりお酒に呑まれ、ひどくすればアル中状態ということだ。
ゆえに、その影響をもろに受けていればいるほどパワーに傾く。
言わば、機能不全と言える。

ということは、顕在(具現)の男性、肉体であるボディからの支配、つまりパワーからフォースに変換する作業が必然となってくる。

パワーは闇・エゴで、フォースは光・愛。
つまり愛不足であり、自己愛(自尊心)の欠如であり、機能不全だということが明らかに理解できる。

ということを自分の男性性、つまり顕在を内在に置き換えて考察すれば観えてくるものがあるはず。
顕在の要因は内在に潜んでいる。

つまり内在であり、具現ではないにも関わらず、内在において具現的機能をしてしまっているわけだ。
内在=フォース=愛の男性性を動機とすれば、その動機をもって実際に事を成す(実践・具現)ときにパワー=エゴの動きに変わってしまっている、ということだ。

動機は愛なのに、その活用や動くときにはエゴでその愛を表現(具現)してしまっている。

男性性の意味には、理性・理論・遠心力・拡大・分裂・独立・浸透・放射というものがあり、与える、ということをしようとする本来の動が在る。

ということは、内在の女性性に対しこの役割にいる男性性が、愛は土壌にすでに在るのだけれど動くとき関わるときにパワーやエゴで関わろうとする動きがあることが観えてくる。

パワーやエゴで・・・、ということはつまり支配やコントロールをしようとしていることが分かる。
なぜ、支配やコントロールしようとするのか。
それは機能不全=愛不足であり、自己愛(自尊心)の欠如だからだ。
・・・と、話が元に戻る。

で、愛不足を他者、置き換えれば女性性のせいにはできない。
せいにするならそれは自己責任の欠如であり、他力本願だ。
誰でも、つまり男性性だけでなく女性性も自分で自分を愛するということを学び育んでいかなければならない。

つまりわたしの男性性はまだ未熟で発展途上で、まだ幼いということが分かる。
まるでわたしの息子状態だ。具現に置き換えれば。
だからわたしは息子を産んだのだなぁ、と妙に腑に落ちる。

ここで・・・

男性性を学ぶさい、具現のパートナーである龍と息子が鏡の要因を持ってくれていることがわかる。
つまり、インナーとインチャ、その両方が内なる性を学ぶには関わってくることが分かる。

そのインチャには親との関係、つまり親との関係で培った(刷り込まれた)機能不全も関わってくることが分かる。
男性性を学ぶには、父親が対象になる。

結局、すべて要因は絡み合い循環していることが分かる。
機能不全=要因は循環している。

しかし基本は外ではなく内であり、内の変化(=創造)が外に波及する。
ということは、自分の内在する男性性があくまで土壌であり、他の循環する要因の鏡的存在はエッセンスに過ぎない・・・ということだ。

そのエッセンスにいかに気づき、どれだけのエッセンスを土壌に活かし続け、育んでいくか。それに尽きる。
しかもどのエッセンスもパワー・エゴ・機能不全であるから、それを愛の視点・愛の見方・愛の法則・愛のやり方にすべて置き換え変換していけばいいということになる。

となると、男性性の機能不全を見つけ出せばいい。
すでに自己愛(自尊心)の欠如であることは分かっている。
あとは、どこが?・・・を見つけ出せばいい。

そのエッセンスを投じ、見せてくれているのが息子であり、龍であり、父親だ。
息子・龍・父親の機能不全を見つけ出せばいい。
必ず、なぜか3人に共通項が出てくるはずだ。

3人に共通するものは・・・

女性ありき。つまり頼っている。何を頼っているか・・・。
それは自分の世話。自分でできるにも関わらずやってもらっている。

機能が不全しているから、その機能不全な行いが愛・安心・守られている・自分を見てくれている・自分に想いのフォーカスが注がれている・・・という勘違い、はき違いを起こしている。
にも関わらず、これらで満たされる。

これら機能不全を起こしているということは、当然、機能不全さで満たされ愛を感じるというおかしさが起こっていて、逆に健全さには魅力を感じないという機能不全が起こっている。

健全であることに魅力を感じず、機能不全に魅力を感じる。
これだ!!

わたしの男性性の機能不全は。
と言っても、これは男性性に限らず女性性にも当てはまる。

しかし、違いがある。それは仕組みだ。
男性性は与えるとか浸透さすとかという仕組みがあり、
女性性は産み出す・創造するという仕組みがある。

互いにもちろん循環し、互いがいなければ成り立たないのではあるが、注目するところは役割・仕組みの違いだ。

男性性は与える・浸透するという仕組みから影響力の大きさが強いのが分かる。
男性性の要素に拡大というものがあることからも分かる。攻撃性という特性にも要素が関わっているのも理解できてくる。

ここで、エッセンスであった3人の共通項と、その土壌である機能不全を当てはめていく。

土壌はすでに機能不全。
共通項のエッセンスは、自分の世話。自分でできるにも関わらずやってもらっている。

つまりわたしの女性性に対し、男性性は、これらの影響を大いに与えていることが分かる。
しかも内在のフォース=愛という動機(土壌)であるにも関わらず、その動き(実践)はパワー=支配・コントロールで動く。

女性性がより成熟している場合、これら機能不全的な男性性のアプローチ(接触)は非常な不快さを持つ。魅力には当然、感じない。

もし女性性が未熟であるならば、話は変わり、女性性も機能不全を抱えている分、男性性のその機能不全さは、明らかに魅力として感じられてしまう。
それが愛されていることだと反応する。

わたしの女性性は、男性性の未熟さ、つまり男性性の機能不全さに不快を感じているのが、これで明らかに分かった。

そして男性性はその機能不全さを自分で理解していない、無意識に分かっていない。
今まではその機能不全さで与えていても(その機能不全さがあっても)愛されてきたのに、今は愛されない。その与える愛が通用しない。
・・・となると、どうなるか。

すでに愛不足である男性性は、確実に動揺する。不安になる。自信がなくなる。
それらは恐怖であり、今まで女性性を自分が守ってきた守れてきた、与えてきた、与えたことで女性性は満足していた・・・なのに今は違う!
男性性として自分は役不足か、自分はそんなに弱いのか、そこでエゴればまるで自分が女性性に自分の立場を脅かされているように感じる。

それは恐い!恐怖だ!
なんとか前のように戻らなくては!・・・となる。

そんなふうに自分を脅かす女性性を当然、否定する。認めない。
女性性のせいで自分はこうなってしまっている・・・と思っている。

これはつまり、男性性自身の方が自分というもの(自分の未熟さ・状態)を(分かっていない・気づいていない)認めていない。
認めることを否定している。
ますます気弱になる。自信もなくなる。

女性性よ!変われ!お前はおかしい。前とは違う!・・・と、ますますコントロール(支配)しようとする。

ところが女性性は、自分の言うことを聞かない。自分の思い通りにならない。
すると男性性は、自分の力のなさに愕然とする。
今まで通用してきた力が効かない。
その力とはパワー(エゴ)だ。

女性性は成熟してきたので機能不全さは不快に感じる。
自分自身が機能不全だったときには魅力に愛に感じたその力が、今では不快なのだ。

このまま男性性が自分を認めず、女性性の成熟していく変化を認めず、否定し拒み、抵抗し続けていくなら、産まれるのは分離。

女性性は産み出す・創造するという仕組みを持っている。
その女性性は、男性性から大いに影響を受ける。

男性性が与えるものが、自己の受容の反対にある否定や抵抗であれば、当然、女性性がその影響を受け取り産み出すものは、分離・・・となる。

成熟すればするほど、パワー・エゴ・闇を心地いいとは感じなくなる。
これらに対し、とても敏感に察知する。
成熟であればあるほど、健全が心地いいので健全さを守護しようとする。

機能不全があればあるほど、これらに対する抵抗や不快さは鈍感になり、愛とさえ感じてしまう。
機能不全にとってそれは愛なのだから心地いい。魅力だ。
こうして機能不全さは保たれていく。

機能不全さに気づき、違和感を感じだし、気づき感じたものを実際に自分に適用すればするほど、機能不全さは崩壊し、やがてその鎖の縛りから解き放たれていく。



最後にまた戻す。

男性性の土壌はすでに機能不全がある。
共通項のエッセンスは、自分の世話。自分でできるにも関わらずやってもらっている。
男性性としての自立である。

それは自分の役割とは逆のことをしている。
男性性が与える(世話をする・やってあげる)ことを経験していくことで自立していかなければならないのに、その自分でやらなければならないものを女性性にしてもらってきたわけだ。

女性性は本来、男性性から与えられ受け取り受容するものを、男性性がしないことで、自分の役割(奉仕)を超えてやっていた部分があったということだ。

それでも愛されていると勘違いしていたのは女性性の機能不全でもあったわけで、それが成熟し健全へと移行したことで男性性の機能不全が心地いいから不快に変化した。

つまり本来、男性性が与えるものを与えず、女性性に頼ってきたわけだ。

やってきてもらっているその事実を認める、その事実に降伏しなければ本当には気づいていかないということだ。

そして一番大事なのは、パワー(エゴ)ではなく、フォース(愛)で与える・・・という点だ。

女性性を愛している(動機)のにも関わらず、いかに今までパワー・エゴで接して(動)きたかを認め降伏しなければならないか・・・ということだ。

動機と実際の動き、内外の一致が、今までずれていたのだ。
一致していない。


わたしの男性性のリセット(改善)はこれだ。


わたしとしてのリセットは、女性としてこのままさらに成熟しながら、自分の世話や自立を、パワーではなくフォースで行う。
愛をもって世話をし、愛をもって自立をする・・・ということだ。
男性としてではなく、あくまで女性として・・・というのが最もなポイントでもある。

ゆえにこのポイントを、まるで男性かのように取り組んでしまうと、ズレる。
つまり男性のように自立していくのとはまた違うということ。
そのはき違いをしてしまうと、それは必ずまたズレを起こしてしまう。

わたしは男性ではない。女性だ。

わたしは、愛が動機であるにも関わらず、その動きが

この3次元に具現すると、この世界の特徴にどうしても縛られる部分(男性性)があった。
それは3次元の肉体というボディの仕組みがそう在り、そのボディを元々、魂が司り活かすはずが、ところが逆にボディに司られ支配されている状態に至った。
ゆえに、その影響をもろに受けていればいるほどパワーに傾く。

言わば、その機能不全の影響が主に男性性に残っていた・・・ということがわかった。

女性の男性性の成熟は、男性のようになるのとは違うということ。

女性であるわたしは、自分に愛をもって愛の動きで接する。
世話をする。それが自立にもなる。
つまりわたしは自分に対し、わたしが歓ぶこと心地いいこと愛をどんどん与えること。
出し惜しみせず、パワーで接しコントロールせず、自分のハートの声を否定し抵抗せず、歓ばせ愛することに手を抜かず、決して自分を怠惰に扱ってはいけないということだ。

とにかく溢れんばかりの愛で自分を世話すれば、それは女性であるわたしの男性性が成熟し、女性性はもちろん歓び成熟を増し、互いに溢れん愛で循環しあう。

内在の男性性の土壌は愛なのに、顕在(具現)の行為がエゴっていたということは、
わたしに対し出し惜しみして我慢させたり、理屈や理性で言うことを聞きなさいと説き伏せコントロールし支配したり、ハートの声、つまり本当にわたしが望むことを否定したり抵抗したりして、わたしを歓ばせ愛することに手を抜き、怠惰に扱っていた・・・部分が、男性性に潜んでいた・・・ということが明白に判明した。

ということは、ますます受け取る(与えられるものを)・・・という自己受容を育みなさい、というわけだ。
結果、これは女性性のさらなる成熟をも産み出す。創造する。

男性性が成熟することは、つまり女性性をも成熟させることになり、
男性性が愛をもって愛で実際に接するなら(内外一致)、それが男性性が女性性に与えるものであり、その与える行為想いすべてが男性性自身の自己受容となっていき、ますます成熟していく。

こういうものを与える男性性は、自分も成熟するだけでなく、与え、それを今度は受け取る女性性は、受け取ることが女性性の自己受容なので、内外一致の愛を受け取った女性性は、純粋な(無限の愛)を産み出す=創造していく。

それがまた男性性に還元され、それがまた女性性に還元され・・・と、循環し、その循環はさらにまた純粋な愛を産み出す。

これが無限に産み出される、無限に育まれていく、どんどん純化していく質が成熟していく、無限の愛と呼ばれるエネルギーでもある。



ここでまた改めて分かったことがある。

自分を救う行為が、自動的に他者にも波及するという真の救い。
また真の救いというものは、自分でしか自分を救えないという真実が在る。

それが内在の男性性女性性にもあてはまる・・・ということだ。

男性性を女性性が救うことはできない。
逆も同じで、女性性を男性性が救うこともできない。

各自、自分でしか救えないのだ。

その、自分で自分を救うそのものが、自動的に内在の異性を救うことにもなる。


・・・ということは、しごくシンプルだ。

内の領域であろうが、外の具現の領域であろうが、要は自分で自分を救うことを、つまり徹底的に自分を愛し大切に扱ってさえいれば、どこまでも無限の愛は育まれ、どんどん自動的にアセンション(次元上昇・本来の自分)していくことになる・・・ということだ。

なぜこの物質世界にいるか。なぜ分離を起こし男性と女性に分離し、子供を育むか。

すべては鏡で、その具現のエッセンスをヒントに自分が上記の無限愛に向けてアセンションするように仕組んでいるからだ。

結局、自己探求・自己創造でしかない。
どの次元であろうとなかろうと。
究極の源、その源のエネルギーがすでにそう在るのだから。
始まりも終わりもない仕組みそれ自身がエネルギーで、それそのもが無限というものだ。


考察:
だからある日の招待イニシエのとき、息子が部屋に入ってきたのだ(これ具現)。
詳細日記はこちら⇒目を醒ますだけなんだ
どうやらこの課題が、ソースセンターへの移行のブロック(障壁)になっていることが分かった。
・・・ということは、自分をもっと愛せばいいだけなんだ。


本当の自分を取り戻していく覚醒イニシエーション
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posted by dozen/Ren at 21:21| 0611 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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