2006年12月06日

自己探求とは自己を否定することではない

自己探求において頻繁に見受けられるのが、自己否定。
否定、否定、否定のオンパレード。

1205:2006
vol.2
A self-search is not to deny self.
photo : dozen/Ren

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真の自己探求は、気づきというリセット(改善)のオンパレードになるはず。



すべてはエッセンスだということ。
そのエッセンスを活かすだけ。実践するだけ。

自分を否定することは、その気づきを愛にではなくエゴ(闇)に活かしている。

今以外はすべて過去。過去の産物。

過去はもう体験済みの資料であり、エッセンスでしかない。
過去は、今ではない。
過去が今に生きているなら、それは自分が今に過去を創りだしている。
生きていないはずの過去が今にあるのはおかしい。

つまり、今ではなく過去の幻想の中にリアルに生きていることになる。
しかも自ら。自発的に。

すると自分は、今にいない。
今ここに生きていなければ、今の連続・延長の未来は創造されない。
創造されるのは、過去の繰り返し。

今以外はすべて過去。

もし自分が傲慢だったと気づいたなら、それは過去の自分。しかも部分だ。

過去の自分を『今』責め、否定するなら、それは過去の自分を否定するだけでなく、今の自分をも同時に否定している。
そしてその連続。繰り返し。

つまり繰り返しの未来が創造されている。

過去の自分が傲慢でも、『今』は傲慢ではない。
常に『今』は真っ白。
何の体験もまだない状態。善悪も何もない。今に過去は存在しない。

過去は資料。エッセンス。気づきの。

よく歳がいくほど言う。
このままで若返ったらいいのになぁ、と。
つまりそれは、すでに体験した経験をもって若くなって活かしたら・・・。
言わんとすることがよく似ている。

否定する必要はどこにもなく、ただその気づきを、あくまでエッセンスとして『今』に活用すればいい。

その傲慢という機能不全さをこれから繰り返さないためにどう活かせばいいかだけ。客観的に内観し考察すればいい。それだけ。

つまりその機能不全の改善どころを見出し、実際に改善していく。
気づいた分、見出した分、改善の動きを取る。
気づいた分それだけだ。

責めて否定する作業は何もそこにはいらない。その必要すらない。

気づきというものは、動きと伴わせる
改善の動き。

実際に動けば、その気づきは体験に変化してしまう。
変化は創造。
改善された未来が『今』に創造されたことになる。

これが自己探求。自己創造。

例えばわたしは今、男性性の改善に取り組んでいる。
気づいた分を実際にやる。

気づいたのにも関わらず、できないでいるとする。動けないでいるとする。
だからと言って、責める必要はない。
なんでできないんだ!わたしはダメだ。と自分を否定する必要もなにもない。

それは、気づきの質がまだ未熟なだけだ。未熟だということに気づけばいいだけ。
真の気づきは、必ず内なるものに突き動かされる。自然に。自動に。
たまらなくそう実行したい衝動にかられる。

・・・ということは、単に、そこまで自分がまだ気づいていないだけだということに気づけばいい。
これに気づいたら、他のエッセンスが必ず自然に浮上してくる。

違和感とか、まだエッセンスが不足しているとか、まだ何かありそうだとか。直感。感覚。

すれば他に具現にでも注意を払えばいい。次々とエッセンスが浮上してくる。
で、いずれ真の気づきに到達する。

その間、気づいた分、その分だけ実践し続けているのだから、真実を見出すことに拍車がかかる。
しかも動ける分だけ動くのだから何ら苦じゃない。

結局、気づくことに気づくのがいかに近道か。即、実践できる。気づいた分だけ。

単に、気づいていないことに気づいていないだけなのだ。

何ら否定することはない。

しごくシンプル。

なぜにわたしが気づきが大好きか、分かってもらえると思う。
なぜに人の話を体験を聞くのがワクワクするか。
なぜに一緒に気づきを探すのが大好きかを。
関連日記⇒大好きだな。
わたしは動が伴っている気づきが好きだ。動がなければそれは頭だ。

エッセンスを見つけるのにワクワクしていればいいだけ。
ゆだねていれば自然に次のエッセンスが浮上してくる。自動的に。
具現はあらゆるメッセージを常に配信している。

自分が次のエッセンスにワクワクしていれば、その想いは宇宙に自動発信されており、受信されたら情報は降りてくる。瞬時。同時。すでに在る。
しごくシンプルだ。

突然、理由などなしに、ふいに気づくことだって起こる。
なぜか無意識にとった行動が答えを導いていたりする。

自分がいかに性急であるかに気づくなら、それも気づきだ。
気づいたなら、性急であることをやめる、その動きを取ればいいだけ。
すれば、次なるエッセンスにまた出遭えばいいだけだ。

答えは、常に今に在る。
ただし、その答えには質があることに気づいているだろうか。
直球ですかさずビンゴもあれば、そのビンゴを促す答えもあるのだ。

すべて最初から答えはすでに在るが、どんな質の答えやエッセンスに出遭うかは自分のオープンハートしだい。

準備が整っていず、時がふさわしくなければ、準備や時がくるまで待つ=ゆだねることになる。
それはつまり、ゆだねるレッスンが必要というのが答えでありエッセンスになる。

準備が整っていず、時がふさわしくないのに答えに遭っても活かされない。
それは今日の先に書いた日記の、核爆弾のスイッチを幼児にもたせる・・・ってやつだ。
ふさわしくないのに答えだと思い込んだりするのは、すでにエゴだ。
そのエゴ答え。スイッチをもたせてくれるのが闇(エゴ)。
愛(光)はもたせてくれない。それが愛だから。


本当に自己探求をしているだろうか。
真の自己探求は必ず、自己創造へと繋がる。

何も変わらず繰り返し、何も見出せないままでいるとしたら、自己探求はしていない。
実践のない、体験のない、ただただ、頭を動かしているだけだ。
ただただ頭を動かしていれば、頭でっかち探求者が出来上がる(成熟する)。

その実践に活用されない知識は、さらに知識で満足するという目的を追求(探求)する。
知識があるのに、現状は変化しない。自分は変わらない。環境も人間関係も。
上昇しないスパイラルをぐるぐる。
それでも自分は長年スピをし、たくさんの知っている(知識)ことがあると自負する。

学びとはイコール、レッスンのこと。レッスンとはイコール実践(体験)のことを指す。
学びを知識やスキルの数だと勘違いしてはいけない。
学びは体験をさす

変容が起これば、それは学びだ。体験したのだから。体験は動。頭でした知識ではない。
変容は顕在から故意的に起きたものではなく、オープンハートだったゆえに自然に自動に実践(体験)し、学んだのだ。経験したのだ。

気づいた分だけ、動き実践することに苦がないように、さらにありがたいことにそれが霊的愛から自動に起こる。起こさなくても起こる。ナチュラルに。
学びが自動。こんなありがたいことはない。
その体験から得る学び、気づき、真実はやがてはかりしれないほどのものになっていく

知識をたくさん教えてもらった知ったことが、真の学びではない。
真の学びは実際の変化をいざなう
自分、関係、環境など。それが学びだ。知識の数ではない。

そのことに気づけばいい。単に認めればいい。あっさり降伏。
抵抗すれば、自己探求・自己創造を抵抗するも同じ。だからスパイラルせずぐるぐるでいる。


自己探求は、頭ではない。実際に動く=実践(体験)のことを指す。
気づきは実践とともに在る

そうして体験から真実は産み出され、真実が増していく真実は連鎖しワンネスになり、ますます真の真実を見出していく。
その真の真実とは、本来の自分であり、本来の自分が初めから有している叡知だ。

それが顕現していく。
今の自分を通し、顕現=体現されていく。
やがてキリスト化する。アセンションする。愛への帰還。真の自分への帰還へと。さらに成熟して戻る。


本当の自分を取り戻していく覚醒イニシエーション
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posted by dozen/Ren at 11:13| 0612 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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