2006年12月06日

わたしの男性性さらに洞察

龍がわたしにふざけて右足首を掴んだら、痛かった。
この間、バイクにぶつけたところが。
関連日記⇒痛いやないか!!

1206:2006
I see into my male sex more.
photo : dozen/Ren

485b.ren.jpg

ぶつけた時よりずいぶんマシだが、まだそのくるぶしが打った痛みを軽く抱えている。
 

で、気づいた。
まだ男性性は恐れを抱えている。

そこに昨日の気づきが合わさった。

昨日の夜べッドに入り、首がたまに小さくコキッとなることを思い出した。
これは変容の質の中にエネルギーの動きで身体が反ることがあり、反ると頭でのけぞりそのままの姿勢でいることがあり体重がかかって、その繰り返しにより痛めた場所だった。

首は柔軟性。そしてくるぶしも柔軟性。
その首のコキッとなる箇所は、左。女性性だ。

つまり、男性性だけでなく女性性も揃って、柔軟性と出てきた。

ただ、柔軟性の質が違う。

男性性の柔軟性の箇所が見出される足は、通常、前に前進するために前へと動く機能になっている。

女性性の柔軟性の箇所が見出される首は、前後だけでなく左右にも動く機能になっている。それは通常、常に視点、矛先を見ることに沿って動かす。
進む方向に沿うということだ。

今まで男性性の部分が機能不全であったには、あったなりにそれをカバーしようと支えていた女性性の部分があったはずだ。

男性性のある部分が機能を果たさない(放棄)のであれば、当然、女性性はそれをカバーしようと働く。

それが逆に男性性の自己責任(学び)を奪い、過保護になり、女性性の自己責任(自己の境界)を超えている部分であり、女性性の機能不全な部分であることが分かる。

支えようと、自己の境界線を越え奉仕していた。与えていた。
与えるのは本来、男性性だ。
それを男性性から結果、奪う形ともなり女性性がその男性性の役割にまで手を出している。

これって・・・。
今年の2月にも出てきた。引越しのとき。
関連日記⇒ゆだねるという深さの中にある自己責任
スパイラルしたのか。

これがわたしが生まれたときから今までの根底に在る癖。
ファーストスピリットのコーネリアンの部分。癖。
コーネリアンは宇宙戦争を終わらせる目的を持っていた。
言わば救おうと思った。
関連日記⇒わたしにとってのアセンション
    ⇒スピリチュアルセックスの日

で、この今のわたしがこの癖に気づいた。この癖は霊的に大きな気づきだった。
過去世でも何度も形や表現を変え、救おうとしていた。
ゆえに真の救いが自分を救うことだと気づいた。宇宙の輪廻さえも出たいと。
コーネリアンは自分の部分を具現(わたし)することでそれを学び成熟へ向かおうとした。

気づく。あとは実践。同じ課題でもスパイラルしたということは進んでいるということだ。

支え。首も足首も。
うん?
首は頭を支えている。足は頭も含め身体全部を支えている。歩く(前進)時はそうだ。
移動(移行)する時に。

ほら、やっぱり移行が出てきた。
それはソースセンターとも言えるし、自分自身の成熟へのステップアップとも言える。
関連日記⇒わたしの男性性と無限の愛

女性性を包含し支えている男性性。
その移行する際に必須な男性性。支え。そこが恐れる。

頭を支えている女性性は何だ。
視点に沿う首。
頭をシンプルに高次とすれば、高次に沿う際、たまにコキッとなるわけだ。

単純に、高次へと、今より高次へとステップアップする恐れがお揃いで、波長が合って引き合っていたんだ。

それがお互い今までは、波長が合っていたがもう合わなくなってきていて、とうとう痛みで表現した・・・ということか。

どちらも柔軟性。
さっき出てきた沿うことと関連している。
心地よく支えるには、動き(動)に沿うことが一番だ。一体化。
沿う柔軟性。

つまり、それに恐怖を覚えるなら、何をするか。
抵抗するしかない。スムーズにさせない。
これ、柔軟性が言わんとすることじゃないか。

じゃ、なぜに高次に沿うのが恐い。
男性性は女性性を包含し支えるということは、その女性性に沿わなければならない。

機能不全を起こしているなら、それはまるで女性性に力(パワー)を奪われるように感じ、自分を明け渡す、与えるなんて恐くて恐くて当然、出来ないだろう。

いかに自分を明け渡し、与えるかが健全であるかを男性性は理解する必要がある。

男性性は、女性性しか見えていない。
その女性性が何を支え、何に沿う存在なのかが見えていない。
役割が見えていない。
男性性とは違うこと、互いの役割が機能が仕組みが違うことを知らない。認めていない。抵抗している。

・・・ということは、男性性自身の役割、機能、仕組みも認めていないのだ。

ゆえに、その馴染みのある自分、機能不全さ(女性性を支配下に置く・尽くさせるetc含)にしがみつき執着しようとする。
変わりたくない。変化が恐いのだ。

こういう男性性の機能不全の部分に同調し、波長が合っていた女性性の機能不全の部分。
前回の洞察では男性性の自分でできるのにやってもらうというもの。
それを女性性はしていた。
関連日記⇒わたしの男性性と無限の愛

先に書いた機能不全さに含まれる、女性性を自分の支配下に置く、尽くさせ自分が与えてもらう・・・に繋がる。



当然、鏡だ。女性性も同じだ。

高次に自分を明け渡すのが恐い。男性性は与えるだが女性性は受容だ。
高次を受容するのが恐いのだ。

男性性が明け渡すのが恐いように、女性性は受容するという自己の明け渡しが恐いのだ。
自分を失うようで。

ゆえに機能不全さに執着する。
その執着は男性性の成熟を阻み、いつまでも男性性の恐れを助長さし、ますます高次を包含した女性性を包含し支えることから放棄する、目をそらす。

するとその男性性の状態は、女性性自身に痛みを与え、痛みをカバーしようとするその恐れは、ますます高次に沿うことを恐れる。

互いに気づかなければいけない。
決して自分を失うのでも、支配されるのでも、コントロールされるのでもないことに!!!

いかにもうすでに今まで、機能不全さに自分を失い、支配され、コントロールされてきたかを。

高次である自己との一体化を恐れる理由など何もないことに気づこう。
さらにより自分らしくなることだと気づこう。


ここまでの日記を龍に読んでもらったら、感想のラストに、
「責任を負わされるようで恐いんだよ。」という想いが龍の口から出てきた。

その言葉を聞いたわたしは、すぐに気づいた!
責任というそのものを履き違えている!・・・ということに。
当然、わたしもわたしの女性性も、つまりみんなで履き違えている。

履き違えていることは、機能不全から波及している。
その機能不全さは、責任というものをこう理解しているだろう。

責められる。自分のしたことに報い(よくない意味で)を受けなければならない。・・・と。

すでにもう自分がちゃんとできないと決め込み判断し、恐れている。
やらないうちから。
与えることが恐い。まるで与えれば、自分が大変な目に遭う・・・損をする、と決めてかかっているかのようだ。

こう理解している土壌にあるのは、まさに機能不全。
その機能不全さから、こう理解し、それに縛られ支配されている!ことが一瞬で分かった。

機能不全さは、健全さを知らない。恐くて理解しようとしない。目をそらす。

健全とは真の愛が土壌であり、その土壌にある責任というのは、愛の報いだ。

愛を選択し、愛を行使し、それに責任を取るとなると、そこにあるのは自分の行った愛の報いでしかない。
つまりその報いとは何だ。

愛の享受でしかない。愛ある恩恵でしかない。

機能不全さはずっと、努力しなければ得られないとか、苦労しなければ得られないとか、ただほど恐いものはないとか、騙されないようにとか、裏切られないようにとか、とにかく用心しなければならない用心するに値する環境下にずっといた。

そんな環境下でいたなら、当然そこでの自分の行為は愛ではない報いばかりがあっただろう。
となれば、自己責任、責任を取るというのは、非常に恐い。
恐れを抱いても当然だ。

これらすべてが機能不全している状態であること、真の自己責任ではなかったということに気づかなければいけない。

すべて機能不全さに騙されていた。
その履き違えてきた自己責任は恐れとして自分を縛り、支配し、健全な責任というものに気づかないようにされていた。
関連日記⇒真のチャネル(アクセス)・真の媒体になる
    ⇒わたしはトゥルーマン

しかもその機能不全さは誰のものでもない、このわたしだ。

で、わたしは気づいた!

健全な土壌での自己責任とは、愛の享受だと。

女性性は愛を享受する、高次(本来の自分)を享受する、その明け渡しはなんら恐れるものではなかった。

男性性も、高次を包含する女性性に自分を明け渡す、与えることは、何ら自分を失うことでも、女性性に支配されることでもコントロールされることでもなく、
愛(本来の自分)に、愛の報いに自分を明け渡す、与えることだったと。

自分を与えることは、愛を享受する自己受容(本来の自分に戻る)も同じことだったと。

女性性は、機能や仕組み、役割すべてが初めからまったく違う自分でもあるということ。
その女性性を認め降伏し受容することで、自分をも認め降伏し受容するのだと。

自分でも在る女性性に、自らを与え明け渡すことで男性性は、本来の自分へと真の愛へと帰還していくのだと。

女性性の機能・仕組み・役割を認めず恐れ、抵抗する限り、男性性の真の自己受容はない。

女性性も男性性も、機能不全から真に目醒め、健全へと移行することで、互いの循環は真のひとつへと向かい、真の高次である本来の自己へと一体化(融合)が促進される。

すでに体験しているじゃないか。
今まで愛を選択し続け、いったい何が起こってきたか。
その愛の享受は、すべて霊性で自然に自動に起こり、至れり尽くせりだったじゃないか。

どれだけ愛のギフトを受け取りその恩恵に恵まれてきたか。

それは龍も同じことだ。
互いの存在、そして根源や高次たち、スピリットを通しどれだけの愛の享受に恵まれ、自己の成熟へといざなわれてきたか。

これだけの証拠があってもなお恐れるということは、この3次元の真実や持ち越してきている機能不全さ、そこに加担する闇の力・環境が、どれほどの威力かがよく分かる。

屈しない。
愛を選択し続ける。真の真実をわたしは生きる。

わたしはわたしを必ず救うことができる。


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posted by dozen/Ren at 19:46| 0612 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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