純粋になって泣いた。
違う。
純粋になって、じゃなく、すでにそのとき純粋だった。
I cried much.
photo:dozen/Ren

ソースの言葉は2つだけだった。
『夢遊病みたいなことはやめなさい』
『システムを認めなさい』
その直前には夢で、『現世の余韻に執着している』と。
ソースとの交流が終わるように消える際には、
『このままわたしのエネルギーにいざなわれていきなさい』と残してくれた。
悲しかった。自分が。
自分を充分に愛せてないことが分かったから。
分かりすぎたから。
この体験を2日ほど味わうことでわたしはあることをはっきり味わった。
顕在を働かすことができない。
いや違う。
顕在が存在していない。
そしてわたしは顕在の偉大さを知った。
顕在の元々の目的は、ここで神聖さ・愛を体現する際のツールだった。
そう、顕在は仕えていた。奉仕していた。
ところが今では機能不全さが大いに目立っている。大いに問題になっている。
仕えるどころか、奉仕するどころか、その逆。
顕在に仕えさせ奉仕さえ服従させられている世界がここ。
今では人は、顕在が自分のすべてかのように振舞っている。
その顕在で感じる自分自身、その自覚が、自分だと。自分の全意識かのように。
わたしは変容が進むことで知ったのは、顕在さえ本来の在り方に戻っていくということ。
顕在が段々とゆっくり純化されていく。
それが顕著に現れだしたのが、キリスト化領域に入ってから。
明確になった。
本来のわたしに顕在が仕える、奉仕するようになってきた。明らかに。
するとどうだろう。
純化されればされるほど、それに比例し霊的自分(スピリット)や高次たちと共に表現できるようになっていく。
仕え奉仕する、まさにこの言葉通り。
そして今回ソースとの体験で体感した純粋さには、この顕在すら入る余地はなかった。
顕在がないとどうなるか。
まるで子供。子供のまんま。
神聖さが大好きな、父なる母なるソースを愛してやまない子供。
子供だから説明不足。話すことはとてもシンプル。
大人が話すようには話さない。
いや、まったく話せない。
そして大人のような意識が存在しない。
体験していたときにはまったくこれらに気づいていない。
少しでもそういう意識があれば気づくのだろうが、それがないのだから、ただ『ない』。
いや違う。
意識がないことさえ、ない。存在していない。
ようやくいつもの自分に戻るのに2日ほどかかった。
その間に波はある。
でもいつもの自分には至らない。
いつもの自分が現れだしたときに初めて気づくのだ。
そしてわたしは、このとき心から『顕在』に感謝した。
顕在がどれほどここで生きるには必要なツールか、その偉大さに驚くしかなかった。
顕在が在ることで交流がスムーズになる。コミュニケーションが豊かになる。
そう、まさに純粋な幼き子供の代弁者であり、補い役であるのだ。
これが本来の顕在の役割である。
その役割を超え、しゃしゃり出て、まるで自分だけが主かのように生きコントロール三昧。
エゴにどっぷり染まった顕在、みんながよく自覚している自分である。
機能不全であればあるほど、完全に立場逆転、のっとられている。
神聖・霊性・愛・本来の自己・健全さに沿うどころではなくなっている。
そののっとったエゴも、自分のものだ。自分の創造。自分が創り手。
誰1人、言い訳はできない。
染まるたびにその選択をしたのは、他の誰でもなく各自自分でしかないのだ。
されどわたしは体験した。
愛の選択をすればするほど、その状態から抜け出していくことを。
抜け出すばかりか、本来の機能も取り戻していく。
するとどうなるか。
本当の自分にめぐりあえるのだ。光と愛の仲間たちにも。
ついにはわたしは純粋な自分に巡り合った。
そこには、顕在すら存在しない意識があった。
純粋なまま。
エネルギーを愛にしか用いたくない存在がいる。
いや違う。
用いたくないではなく、愛にしか用いることを知らない。
とてもとても本当に素直で、子供だが、あなどれない神聖さを宿している。
ゆえに単なる幼稚さではない。
心地いいかそうでないか。
選択は、・・・神聖さに沿う心地いいしかもっていない。
選択するには、するしないの何かしらが、何かどちらかが最低でも必要だ。
だが、心地いいしか選択がないのなら、選択が存在していないのも同じだ。
心地いいか、もっと心地いいを選択するかなら在る。
その純粋なわたしが、充分自分を愛せてなかった部分(今のわたしのことだが)に気づこうものなら、どれだけの悲しさになるか。
ただ、ただ悲しいのだ。
責めは存在しない。
責めることはない。
いや違う。
責めるが無なのだ。無い。
ただ悲しいがあっただけ。
そして心地いいに向かう。
さてどうしようかとか、どうしていけばいいだろうかとかもない。
ただ心地いい愛に向かう。それしかない。
選択すらしていない。それしか望んでいないのだから。
いや違う。
望むというより、愛が存在しているだけ。
そういう純粋なわたしと、今のこの顕在付きわたしを比べると、もう大変だ。
たとえ顕在が神聖さに降伏してきているとはいえ、まだまだああだどうだと言っている。
完全にシンプル負け。
勝ち負けじゃないけど、状況を分かりやすく言うなら。
まさに神聖さ(純粋な子供)に顕在は降伏するしかない。
実際の小さな子供には、小さいながらにエゴはある。
しかし、純粋なくったくのない状態には大人は勝てない。溶かされる。
そういう純粋さに触れるとき、いかに大人はたくさんの巧みさやさまざまなエゴで自分をコーティングしているかが分かる。
そのコーティングが充分なされている上で、言動している。
しかし純粋さはいいとして、純粋だけではこの世の中で生きていくにもコミュニケーションも大変だ。
それをフォローしているのが親であり、やがて自分もそれを身につけるから深い交流もしていける。
ここでは小さな子供さえエゴ顕わに言動しているのに、神聖さを愛する内なる子供は、何ら汚れもない。
振る舞いや言動は幼き子供なのに、その中身・質・成熟さはこの次元をとうに超えている大人だ。深すぎる存在。
これこそが次元を超越しているコアの部分じゃないだろうか。
人間の自分、魂、スピリット、そしてソースと繋がっているコア。
ソースの幼子であり、また最も成熟しているソースにまで繋がっているコア。
そのコア全体の、ごくごくごくほんのある部分(側面)をわたしは体験した。
そしてこの体験のおかげで、自分に先天的に備えられたある機能をリアルに理解した。
それはここ地球へ降りるとき、大きな視野での役割に貢献する自分への愛あるギフトとして持ち降りたものだった。
(このことをコーネリアンの蘇りの記憶と、高次たちのメッセから知った。)
わたしはそうとは知らず、ずいぶん生きるのが大変で苦労した。
しかしそれがやがて大きなギフトだったことを感じ始める。
そしてついに、さらにその意味を知るが、苦労した分すぐには納得できなかった。
だが、今回ソースにはっきり『システムを認めなさい』と言われたことと、この幼き神聖さに触れることで、
この顕在の自覚あるわたしがどれだけ恩恵を享受してきたか、また、いるかを知った。
その恩恵があるからこそ、初めから知らずにこの神聖な子供とリアルに繋がっていたのだ。
そして今回、初めてわたしはその存在だけでいることを、少しの時間だけだが体験した。
ソースに心から感謝だ。
そしていつもそばにいてくれる龍に。
キリスト化領域と、この幼き神聖な子供が、密接に関係しているとわたしは感じている。
誰もがキリスト化領域に入ることで、いずれ必ず出逢う存在なのだとわたしは感じている。