2007年02月01日

GOTHIKA

精神病院の院長夫婦の話。
旦那さんが院長、そして奥さんが精神科医。

0201:2007
GOTHIKA.

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映画の場面は、その精神科医と患者のカウンセリングから始まる。
患者といっても犯罪を犯しているので囚人と呼ばれている。
 

その精神科医が言う。
「本当のことを話してくれなきゃ助けられないわ。」
囚人が訴える。
「わたしは初めから本当のことを話している!あんたにとってわたしは頭が狂った囚人なのよ。異常者としてしかわたしを観ていない!あんたは人の話をハートで聞いているんじゃない。頭でしか聞いてないんだよ!

そしてその後、精神科医は彼女と同じ体験を味わうことになる。
そして同じように、誰にも信じてもらえない。

精神科医は患者であった囚人に謝った。
「わたしは何も観てなかった。本当のあなたを何ひとつ観てなかったことが分かったの。許して。ごめんなさい。」と。

そう、2人共、憑依されたのだった。
憑依だけでなく、ずっと付きまとわれる。

その幽玄は、生きていたときにされた本当の事実を知らせたかったのだ。
その幽玄は、同じ精神病棟に勤める医師の娘であり、死因は自殺とされていた。
が、実は違った。

その事件にはその娘1人だけではなく、何人もの犠牲者がいたのにも関わらず真相は暴かれないままだった。

その事件の犯人は、実はその病院の院長自身であり、親友でもある警察官だった。
この2人は幼い頃から動物虐待などを好み、それにも満足しない精神異常者だった。

彼らがやっていたのは、若い女性をさらっては監禁し、性的虐待を残忍までに楽しみ、それを録画していた。

警察官は院長を通し、病棟にいる精神異常者とされる若い囚人たちを同じようにいたぶり快感を求めていた。

異常者と呼ばれる者をどう扱おうが、出口のない彼女たちにとっては誰にも信じてもらえず、ただただ置かれている環境を嘆くしかなかった。



わたしは観ていて、この映画を観るメッセージは何だろうと思った。

精神を病むことには、幽玄やルーツカルマが密接に関係している。
そしてその背後には、それら動きを司る者たちが実際に存在している。

この映画は逃げられない環境にいる者たちを巧みに活かした者たちが描かれている。
世間的には、立派な院長であり警察官。
が、その者たち自身が異常者でもあった。

院長も警察官にもこれら闇が関与し、そしてまた囚人たちにも闇が関与し、どちらも闇に関与されながら、さらに巧みな闇のほうにもてあそばれる

精神を病んでいるからと、何を話しても本気にはされない。
特にこういった目に見えない領域の関与を受けていると、その話をしても信じてもらえない。

ここで登場した娘の幽玄は、院長への復讐のためにその妻に取り付き、妻に憑依し殺すことを果たした。

だが、考えてみればこれさえも幽玄がやったことになる。
が、それを引き寄せたのはその妻自身だ。

その後、さらに起きていた事実を明らかにするためにその妻を誘導する。

精神科医であったその妻は、初め自分に起きたことが受け入れられなかった。
とても愛し合っていたと自分は思っていたからだ。
殺すわけがない、と。

が、憑依され自分の夫(院長)を知らぬ間に殺してしまった真相を理解し始める。
そして続いていく自分に起きる現実を受け入れることで、カウセリングの際に囚人が言っていた話が事実だということを認めることになる。



幽玄など闇の世界に起きていることを垣間見るストーリー。
現実に在るとわたしは思っている。こういうことが。

そしてこれら闇(恐れ・エゴ)がなぜ高次たちからすれば幻想と言われるのか。
それはすべてが自分たちが創造したからだ。
その仕組みさえも。

しかもたとえ無意識であろうと加担し続ければ、その創られた世界は維持され続けていく。



ただ、何でこれを今、見ることになったのか・・・、だ。

ポイントとしてあげられるのは、

闇の巧みさ。闇が闇を用いる。
幽玄の娘は、隠された事実を知らせたかった。
またその娘は、生きている人を用いて復讐を果たした。
さらに、見えることだけが真実ではないということ。
 観えない領域、背後を観る大切さ。

これほどの連鎖や、闇を引き寄せるということは、それほどに自分の闇がなければ引き合わない

またこの主人公の女性である精神科医は、最後にはとことん自分自身を信じた
起きている事実を認めた
そして、救えるのは自分しかいない現実を受け入れ、最後まで自分を救う行動を取り続けた

そして結果、彼女は自由を手に入れた



これらはシフト前のメッセージだろうか。
そして今回1月に起こった闇の学びへのメッセージだろうか。



イニシエでもそうだ。
一口にイニシエとは呼んでいるが、そこで行われることは非常に多義に渡っている。

その中で、幽玄や生命体・想念体や、ルーツカルマのエネルギーも扱われている。
そしてこれらを扱う上で軸となるのは、その本人自身の内的状態だ。

本人の自己責任と学びを超えて行うことはされない

またカレッジや特にプライベートでは、さ迷える霊との対話の経験もある。

霊との対話は興味深かった。
対話をしてみれば分かる。霊も1人の人間だということが
何度も何度もサポを行いながら、光へといざなう作業は大変だった。

それを世間では、あっという間に光にいざなうスキルや、いざなうという人たちがいるが、本当だろうかと思う。

霊的世界に懐疑的な人たちは、生きている人にもたくさんいるように、それは霊とて同じ。

この世の中でスピさえなかなか理解されなかったり、宗教?と勘違いしたり、懐疑的な人たちに、スピの事実・真実を理解してもらおうなんて一筋縄ではいかない。

例えばそんな人たちが霊となり、自分が死んでいることさえ分かっていないとするなら?

そうでなくとも探求者なら分かると思う。
自己探求している人なら特に。
自分の成熟もままならない、というプロセスを誰でも体験したことがあると思う。
執着を手放せないことも、ざらに経験しているだろう。

自己探求でさえそういう経験が起こるのに、
じゃあ死んでいるからって「はい、分かりました。光に向かいます!」とか「ここから去ります!」って、なるんだろうか?

死者をいざなう関係の仕事をしている人たちや、
「こないだわたしの元に訪れてね、ようやく話して往(い)ってもらったの。」なんて、本当に?・・・と感じてしまうことがある。
頭の中で霊と対話するそうだ。

当事者を超えないという域は守られているのだろうか?・・・と感じる。

探求者なら分かるだろう、誰もがコントロールドラマやインチャの傷を学ぶことになる。
その学びは、死者も持っている



ついこの間の高次からのアクセスで、カルマを学んだ。

相手の自己責任・学びを超えた場合、超えた分だけそれを引き受けることになると。

超えた『質』に合わせ、今度はそれを自分が学ぶことになる。
自分用のオリジナルとなって

これは一見、難しくも思え、恐くも感じるかもしれないが、日常、誰でもやっていることだ。

コントロールドラマを知ると分かりやすい。
もっと分かりやすいのは、依存、共依存を知れば分かりやすい。

相手の責任を自分が取る、自分の責任を超えて。簡単に表現すれば過保護。
また自分の責任さえ取らず放置する。他人任せ。などなど。

こう考えていけば分かりやすい。

生きている人間でさえこの法則にいるし、肉体を失ったとはいえ、もちろんこの法則にいる。

相手が生きていようが肉体を失っていようが、どちらを相手に関係を持っても、問われることは同じ



この地は、生きている人も肉体を失った人も、たくさん住んでいる世界



アップしていないが、最近の高次のメッセを合わせ考えると分かった。

イニシエがすでに多義の霊性を扱うように、カレッジそのものも多義に渡って霊性を学び、本来の霊的自己を取り戻していくということ。
その中には、こういう分野ももちろん扱われるということだろう。

すべてはワンネス。
自己を癒すことや、そのサポ(自分・在るがままを活かす)になることには、当然こういう事柄も含まれていてもおかしくない。
精神という分野、また病自身と闇(エゴ)は密接だからだ。





本当の自分を取り戻していく覚醒イニシエーション
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posted by dozen/Ren at 20:04| 0702 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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