2007年02月08日

違う。

モークから初めてのメッセージ
瞑想↑に気づいて、さっそくその日から取り組んだ。

0208:2007
vol.2
It was different.
photo:dozen/Ren

521g.ren.jpg


すると、2人で横になったとたんわたしの口が動き出し、
「それでは行きましょうか。」と、言うではないか。


2人共、驚くが驚いている場合ではない。
オースだ!
すかさずアドバイスに、耳を傾け取り組む。

結果、瞑想はすこぶる心地いい。
瞑想の質が変わった・・・、と表現している通りの質を味わった。



ところがだ。
翌日の今日も瞑想に取り組んだが、違う!

この日はオースからのいざないはなかった。
単に、自分たちで取り組んだ、招待イニシエではない瞑想。

全然、違った!
質が、味わいが・・・。

ここ最近、招待イニシエが連続してただけに、その違いを露骨に味わった。

全然、違う。
いざないがあるのと、ないのとでは・・・




ここで何かおかしい・・・、とわたしは気づきだす。
でも、何が、かは分からないまま。
ぼやけていた。

モークに続くシフからさらなるメッセージ
そして昼に入ったシフのメッセージ↑が脳裏に浮上する。
気づきの甘さがある!・・・とはっきり言われたも同じだった。


・・・と、すると。

分かった。

確かにすべてはすでにイニシエーションだ。
が、しかし、であるけれども、

日ごろのプロセス自身が一イニシエであり、また実際のイニシエーション自身も、ひとつの大きな一イニシエーションでもある、ということだ。

ならば、常日ごろの空気のように味わう瞑想自身も、一イニシエであり、実際の招待イニシエも一イニシエ。

そして日ごろの状態がどうであるかを自分で知ることになるのが、招待イニシエであるわけだ。



なんだ、ラブスピで日ごろやっているイニシエと、まったく同じ法則じゃないか。

・・・とすると、言わんとされていたことは、

招待のときだけ瞑想していればいい・・・、ということではない、気づきなさい!
と、いうことだった
のだ。

だから、すべてはイニシエーションなのだ。



つまり、探求に置き換えると分かりやすい。
カレッジに置き換えると。

すべて(日ごろ・日常)は自己探求であり、レッスンを受けているときだけが探求ではないということ。

また、日常、息をしているぐらい探求しているからこそ、レッスン(カレッジ)が活きるのだ。

特にclass5以上からのレッスンは、わたしたち(dozen)にこう言われる
レッスンのときだけがclass5・自己探求ではない。
class5以上からは、日常すべてがclass
だと。

これと同じじゃないか。

日常があるから活きるのだ。



イニシエーション(ラブスピ)然り、レッスン然り、招待イニシエ然り。
すべてに通じることだ。



今回の気づきのこの瞑想は、わたしの男性性と龍が関係していた。

つまりわたしは、変容や招待のときだけゆだねているのではなく、日常で取り組む動き、動を起こしなさい(沿いなさい)ということ。

日常の動を起こしていない、というのは、動くことでさらに沿う(加速・強化・愛霊性への確固たる意志表現)ということをしていず、ゆだねる・・・、待つ=沿うことへの動き、は同じ、ということに気づきなさい、ということだ。

ふと今日のランチに持参した本(スーパーアセンション)のチラミ箇所が脳裏に浮上した。
そこにはこう書かれていた。



心の安らぎ、安定性・・・。
今という瞬間に生きることによってもたらされる自由と選択。

私たちが悟りをひらいた状態に至ると、振り回されることはなくなります。

ただ、行動するだけになります

自己破壊的な行動パターンや、信念、価値判断から解放されて、今という瞬間に何が必要であるかを認識し、行動し、完璧に創造します。

これこそ真の自由であり、非のうちどころのない正しい行動です。
これが、今という瞬間に生きるということです。

心は過ぎ去ったものへの後悔の念で苛まれるのではなく、未来を思い煩うこともありません。

過去の体験や選択、行動を公開することによって得られるものは何もありません。
過去は過ぎ去ったのであり、いま現在、ここには存在していないのです。

私たちの過去をガイドにするならば、私たちは過去の認識や信念に隷属することになります。



龍自身は、自分ごとこれそのものを言われている。
日常瞑想が甘い。高次(蓮・女性性)に沿う(与える)動きが甘いと。



そしてもうひとつ。
瞑想をドリームブックで調べた。



あなた自身を知ること。
内側に存在するグル、つまり、内なる師(本来の自己)に至る道。

自分を知るとは、すべてを知ることです。
神を知り、あらゆる生命を知ることです。

真に自分自身を知ったときには、もはや自分にも他人にも、批判の目を向けることはありません。
すべてを愛情深く承認し、受け入れます。

瞑想は、悟りへの早道です。
それは常に変わらず、あなたのエネルギーフィールドを拡張し、あなたの成長を促進します。
それが、嘘偽りのないところです。



日常瞑想。
日常がつまりは瞑想・・・、と言われている。

空気と同じ。
空気は息と密着。
空気がなければ息ができない。

でも、そんなことは生きるには意識がないほど、当たり前。

目に見えない=無、けれど在る。
在ることがリアルになっていない・・・と、こないだのモークのアクセスで言われた。

リアルになっていないということは、当たり前になっておらず、当たり前に息をしていないのであれば、
生きることはスムーズじゃない。

それは息がスムーズに自然に行っていないのならば、常に息をすることばかりにフォーカスして、つまり呼吸ばかりに囚われて過ごすことになる

・・・ということは、

息をする、探求を意識することばかりに囚われている
ということになる。

それはなぜか、

探求を意識していなければならない状態にいる・・・ということだ。
空気ではない、自然ではない。
自然ではないということは、バランスを欠いている、軸から離れている、分離している。

分離しているとは、この3次元の在り方だ。

探求自身を日常の当たり前、空気になっていないからだ。
この人生、この毎日、この命、このすべてが光・愛・霊性の中にすべて存在しているという当たり前の生き方(在り方)=空気、呼吸になっていないからだ。

だから、呼吸に囚われることになるのだ。
つまりまだ3次元にいる。
そう、だからわたしの肉体は、まだ3次元なのだ。


自然で当たり前で無意識だからこそ、真実をリアルに生きている・・・ということだ。
そのことをモークは言わんとしていたのかもしれない。



単なる、『瞑想』というものを指しているのではなく、
それを超えた意味するところで、日常を真実にリアルに生きなさい、過ごしなさい
・・・と言いたかったのかもしれない。



モークだけじゃなく、すべての高次もスピリットも、真の師だな・・・と感じる。
答を与えない。答はない。
道を、歩き方を、気づきのエッセンスを投じる



そしてその日常に取り組むことに気づいた瞑想自身が、ソースセンターの『入り口そのものなのではなく
招待イニシエという入り口を通過できる霊的(愛)体力を創るのが、その日常の瞑想だった、・・・ということだ。

確かに、日常瞑想は入り口とも言える。
が、しかし、その本当の意味にはまだ、気づいていなかった。

確かにモークが言うとおり、
すべてはイニシエーションだ。

しかしその意味をよく分かっていなければ、表層の理解と成熟に留まってしまう

単なる瞑想 と 瞑想のその霊的意味 そして 日常ごと瞑想で生きる は、大違いだ!


 



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posted by dozen/Ren at 18:08| 0702 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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