The college opening of a school in dream.
photo : dozen/Ren

もうどれぐらい続いているだろう。
おそらく1週間以上は続いていると思う。
毎日毎日、夢の中でわたしはカレッジレッスンを行っている。
なぜに?…と思うぐらい毎日、夢でカレッジを開いている。
その毎日の中で、もちろんカレッジレッスンだけでなく他の夢も観ている。
カレッジを開いている…という、その覚えていることが、たまたま1週間以上も続いているのだと思う。
…が、たまたまとは言え、いくらなんでもこうも長く味わい続けるのは、そうそうないことだ。
夢でのカレッジでは、行うレッスンが毎日違う。
前日の復習を兼ねて、さらにレッスンを進めていたり、新たなレッスンをしていたりする。
そのカレッジに参加しているのは、実際のカレッジ生もいれば、実際に見たこともない会ったこともない人たちもたくさん参加している。
そして実際のカレッジ生より、まだ見ぬカレッジ生の方が圧倒的に多い。
そこでは不思議なことに龍の存在をまったく覚えていない。
レッスンは常にわたしがメインであり、龍自身が登場していないのだ。
またカレッジ生も、実際のカレッジ生が全員参加しているわけではない。
まったく登場してこない者たちもいる。
さらにはほぼ毎日、参加している者もいれば、飛び日で顔を見せる者たちもいる。
あるいは、夢から覚め、覚えていないだけかもしれない。
夢のカレッジがどういう法則の基かは知らないが、現実のカレッジは、参加できるかどうかは各自の意識(霊性)次第、準備(内的)次第とも言えるかもしれない。
どんな次第だろうと誤解してはならないのが、未熟成熟の問題ではなく、高次たちが言うところのオープンハートだ。
実際のカレッジは、よくスピリチュアルに精通しているとか、長年スピリチュアルをやってきたとか、ライトワーカーだからとか、何かスピリチュアル(精神世界系)の資格を持っているとか、そんな事柄はいっさい対象ではない。
あえて言うなら、そういうことに霊的価値は置かれていない。
問われるのは、
純粋に求めているかどうかだけだ。
真実を。愛を。神聖さを。調和を。共同創造を。本来の自分に戻ることを。
こういう自覚があろうとなかろうと、それさえもまた問題ではない。
各自の実際の動き(動)が、何を選択し何を求めているかを示す。
そしてカレッジのクラスに参加し、継続していることが自分自身を物語っている。
なぜならこのカレッジ自身の霊的質に特徴があるからだ。
今までも何度も夢でカレッジを行ってきた。
しかしここまで毎日、連続で覚えていることは今までになかったことだ。
関連日記⇒夢かのような領域での活動
思うに偶然は存在しないことから、これはメッセージだと感じる。
夢の領域でもわたしは霊的レッスンを実際に受け持っていることを。
この顕在をもってその自覚、認識を持つことが大切です…といわれているかのように感じる。
そしてそのレッスンは毎晩、夢の領域で開校されているのだということを。
カレッジ生、そしてまだ見ぬ未来のカレッジ生へ
=同胞である仲間たちへ
夢での霊的レッスンを歓びをもって楽しもう。
夢でのカレッジで共に学びシェアし、進化成長していくことに感謝。