2005年06月09日

次々に現れる能力

「わたしあれから考えたんだけどさ、タロットっていうのはどう?」
親友が我家にやってきた第一声だった。

Spiritual ability to appear in sequence
photo : dozen/Ren

613b.ren.jpg


最悪だ。占いなんて。
 


クリスチャン的頭がもたげる。
そんなことは、反する。
でもわたしには能力がない。
何をどうすれば、まったく分からない。

そんな心模様を告げると、
「こう考えれば?タロットのカードに指針を与えてもらうっていうか、伝えることを誘導してもらうっていうか、目安っていうか。」
「う〜ん…。」
「とにかくさ、買いにいこ!」

行きながら何か名案が浮かぶかもしれない。
そう言い聞かせながら腰を上げた。



わたしは1度も占いをしてもらったことがない。
もちろんしたこともない。
カードに意味があって、それを見て話すことぐらいは知っている。
何よりタロット自身が、どこで売っているかも知らない。

親友と道々、考える。
「どこに売っていると思う?」
「手品とかを売っている場所なんじゃないの?」
「じゃぁ、ロフトなんかで売ってるかも。」



ビンゴだった。

一番好むデザインのものを選んだ。
が、開けてみると海外のものだったらしく、説明がシンプルすぎてよく分からない。

「どうする?」
「本屋に行こう!何か占い関係のものが置いてあるよきっと。」



ビンゴだった。

そのカードのまさに説明用のものが置いてあった。
他にもタロット本がたくさんある。
こんな本たちを見たのは初めてだ。

何だか気分が滅入る。

ふつふつと、自分は神に背いた行為をおかしているのではないか…という想いがよぎる。
本当にこんなことをしていいのだろうか。
わたしは間違っているんじゃないだろうか。

そんなことを思いながら周辺を親友とゆっくり散策する。

…と、『精神世界』という文字が張られた棚に、わたしたちは気づいた。
なに?



整然と並んだ本側に沿って入る。
なんだなんだ、ここは!

初めてそういう分野を目にしたわたしは、並んだ本たちに驚きっぱなし。
『聖なる予言』も置いてある。

そうか、ここはああいう本類がある場所なんだ。
不思議な気分だった。
わたしはこの20数年生きてきて、まったくもって触れたことがない世界。

それでも眺めているだけで、手に取り開いてみる勇気はなかった。
その棚を眺めながら裏に移動していくと、心理学系の本がズラッとあった。

やがてもうしばらくすると始まる。
自分自身を知る探求の扉。

その扉の前に、わたしは自分が立っているとはそのときのわたしは気づきもしていなかった。



『明日にでも始めなさい!』
これをわたしは結局タロットで始めることになった。

親友の援助もあり、練習も少しばかり重ねて、ついにわたしは始めることになった。
それを聞いた友人や仲間たちが、「じゃあ、わたしを観て。」と声がかかる。

いくらで始めたらいいやら分からない。
みんなが、「まずは練習がてら¥1500ぐらいでどう?」と声が入る。
そうすることにした。

それがやがては口伝いに広まり、気づけば次々と知らない人からも依頼が入るようになった。
毎月、必ず1回は通ってくる人も出だし、やがては父もやってくるようになった。

あの霊能者にわたしを付き添わせた彼女は、年間を通し毎月、頻繁に通ってくるようになった。
数珠繋ぎに人が、口伝えに繋がっていく。

やがてあのリーダーの「不機嫌」は、的を得ることとなってしまった。
ビジネスを辞め、いつしかわたしはこの世界へと移行していってしまったのだから。



タロットを使ったのは、ほんの最初でしかなかった。
1ヶ月ほど。
ある日わたしはこう感じた。
カードを使わずに、自分が感じるままに、その感じたことを話してみようと。

それには勇気がいった。

わたしにはそれは、チャレンジだった。
頼るツールがない。
それでも試してみたかった。



そうしてカードの活躍はやがてすぐに姿を消していった。

依頼で来る人たちは、友人たちの友人のそのまた友人という風に繋がっているせいなのか、なぜかとても大らかな人が多かった。

しかもわたしが学べるよう仕向けるのだ。
例えばこんな風に。

「できないで元々だから、蓮ちゃん1度、前世を観てみて。」
「そんなことやったことないよ。」
「でも、人には過去世があるの。蓮ちゃんならできるよ。」
「自信なんてないよ。」
「自信なんてなくていいの。ただ、やってみる。それだけのことよ。」

これはわたしに衝撃をもたらした。
もちろんわたしにだけでなく、そう言った彼女自身が大喜びをする結果となった。

わたしはただただ集中した。
今、彼女に必要なものがあるならば観せてほしい。



思わずわたしは驚く!
観えるのだ。映像が!
さらに驚きは続く。

それはその映像が、目を開けても肉眼でも観えるのだ。
自分の額のずっと前方に。
どの方向に顔を向けても観え続けていく。

彼女はわたしに落ち着くように言った。
「そのまま。そのまま。ゆっくりわたしに教えてくれる?」

わたしはできるだけ冷静に戻ろうとした。
集中を維持することに努め出した。
彼女に観えていく変わっていくその画像の様子を知らせる。

どうやら今の彼女には、その言わんとすることが分かるらしく泣き出してしまった。
そうして初めての体験を終了した。

驚きが冷め止まないわたしに彼女はハグで歓びを表現した。
わたしは彼女に感謝した。
彼女もわたしに感謝した。
終えたあともわたしの身体は熱かった。



ある日、親友がこう言った。
「ねぇ。映像が観えるならソウルのビジョンも観ることができるんじゃない?」

ハテナ?
わたしには言わんとする意味がよく分からなかった。

「1人1人には魂ってものがあるのよ。その魂は、わたしたちがどんな人生を歩み、どんな道を行き、どんな学びを味わうのがふさわしいのかよく知っているらしいの。

もし蓮にそのビジョンが観えるなら、それを表現するのは人にとってとても役立つことではないの?」

なるほど。すぐにその意味を悟った。
「でも、それをどう活かすかは本人でしかないよ。わたしはエッセンスでしかないと思う。しかもそれを単なる興味本位で欲求されても、それも違うんではないの?」

「例え本人の利己的な欲求であろうと、純粋な欲求であろうと、今その人に必要のものしか伝えられないと思う。ほら、前世もそうじゃない。」

そうだった。
のちにわたしはたくさんの人たちの前世に触れることになった。

が、しかし、単なる興味本位やセッションの時間が余ったからお金がもったいないので観てほしい、という心の内の欲求には何も映し出されないことを体験から知った。
その人に本当に必要なものしか、情報というものは提供されないことをわたしは学んだ。

他の人はどうか知らないが、自分の能力には、自然に本人を「超えないように」なっていることに気づいた。



親友の提案にトライしてみる。
すると映像が観える。
わたしにはそれが、さまざまなカラーで表されている絵のように観えた。

「蓮。それ、実際に絵に描いてみたら?」
「そうだね。やってみよう。」

絵かのようなそのビジョンを正確に表現するには無理だった。
光線のように輝くさまや、輝きをもって広がる様子や、質感など、土台、元々、絵を描く人ではなかったわたしには、それは非常に難しい挑戦だ。

それでも描ける範囲で描くうちに、少しはマシになっていった。
親友曰くは、そういうビジョンの絵自身がもうそれはそれの味わいになっていて、とてもいいよと励ましてくれた。

色にはさまざまな意味があり、また絵にある色の交わるさまからも、さまざまな情報が引き出せるようになった。

これにはチャクラ自身も関わっていることが分かり、このビジョンからの情報はとても多いことを知った。
詳細に落とすため、色やチャクラの参考資料をエッセンスにしながらリーディング文書にするようになった。

これができるようになると依頼がさらに増加するようになっていった。



あるときからはこんなことも起こった。
「今、わたしに必要なメッセージをください。」
「この相談内容に、エッセンスをください。」

やってみるとスッと必要なものを感じる。
セッションと同じだ。
時には明確さを持つものもあれば、ときには日々の流れや感覚でそのメッセージを感じるしかないような内容もあった。

わたしたちはこれを『ガイダンス』と呼ぶようになっていった。
このガイダンスは、答を与えるのを避けているようにわたしたちには感じられた。
答えはあなたがもっている、と。
あなたが気づき、自分で見出すものだ、と。

まるで、道を教える。それだけだ。とでも言わんとしているかのように。

いつしかわたしのセッションも、そのようになっていた。
いつしか占いにくる場所ではなくなり、探求という場に変わっていった。

こうしてわたしのところには、探求者が集い、そしてわたし自身も知らぬ間に自己の探求という道を歩いていた。
そう、自分自身を知る、ということだ。

聖書を探求し、知るのではなかった。
わたしにとっての真実は、自分というもの自身を知る。これがまさに必要な探求だったのだ。

いくら聖典を味わってもない。
そう。宗教という枠組みでは収まりきれないほど膨大で深遠で無限な真実が、まさに自分の中にあったのだ。

自分そのものがまさに真実へと、真の真理へといざない案内するということに気づき始めたのだ。



そのような土壌の上で、こうしてわたしはどんどん精神世界というものをゆっくりだが知っていくようになる。

わたしより依頼者の方がずっとよく霊的な知識を知っていたり、資料にと本をもってきてくれたり、わたしにいろんなことを試すようチャンスを持ち出してくれる。

精神世界に興味をもったのはわたしだけではなかった。
援助してくれている親友自身が、どんどんのめりこんで行った。
その彼女から教えてもらったこともたくさんある。

わたしは自分の興味が示すものしか読まない。
それでも、まるで自分の渇きを満たそうとするかのように吸収していった。
話は少しそれるが、残念なことに、今に必要のない知識は持続して記憶するのにわたしは困難を覚えた。

今もそうだが、常に『いま』に必要なものしか覚えていない。
本も相変わらずだ。
ので、相変わらず今も仲間からさまざまな情報を教えてもらうことも多い。
前回話した内容や活用した資料すら忘れることも多い。

そんな中でありがたいことは、わたしの真実は常に共に在る。ということだ。



話は戻るが、これら親友と依頼者との霊的旅はわたしにとって、クリスチャンでは、聖書では癒せなかった自分の中にある部分を、同時に癒す作業にもなっていっていた。



やがて気づけばわたしは『VOICE』で活躍するようになっていた。
幼い子どもがいるゆえ、その仕事は自宅で行える範囲のものだった。

そうするうちにそのVOICEの依頼者から、セッションを行ってくれないかという電話がVOICE自身に入りだす。
VOICE側からいかがだろうかと問い合わせの電話。

自宅で行うという条件のもと、価格の割合をVOICEが提示してくる。
あいかわらず非常にビジネステイクな会社だと感じる。

わたしが感じる霊性への価値と、この会社が感じる価値はどうやら違うようだ。
うまく表現できないがわたしは、霊性とはまさに生そのものであり、日常であり人生だと感じていた。
VOICE側は、わたしには単にまさにビジネスだとしか据えていないかのように感じさせるものだった。

今はどうか知らないし、わたしを担当するその担当者自身の価値感だったのかもしれない。
わたしのわたしフィルターというものを通した、わたしが勝手に感じたものが単にそうだったという素直な感想だ。

このときにはわたしの絵のソウルビジョンは4万を超えるものとなり、1時間のセッションは3万にもなっていた。
VOICE側との契約には、契約をしている期間、必ずVOICE価格に一律すること。だった。

こうしてわたしは、いつしか北海道から鹿児島まで、さまざまな人と触れあいをもつ機会に恵まれ、学びも大きくなっていった。

が、しかし。
わたしは後に、忙しさと、その自分の現状の在り方に違和感を覚えるようになる。
さらに今度は、そのような霊性の土壌であらためて自分を見失い始めるという体験を味わうことになる。

その底辺には、以前、見失いかけたものと同じものがそこにはあった。
それを見出す新たな探求は、いずれ出逢うことになる龍と共に見出すことになっていく。

それこそが、真の自己探求の始まりだった。


本当の自分を取り戻していく覚醒イニシエーション
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posted by dozen/Ren at 01:40| 0500 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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