2007年04月21日

傷ついたインチャぶり

ある探求者たちが、他者のインチャに直面したとき、その対応にすこぶるさまざまな葛藤を生んでいる状態を聞いた。

0420:2007
The inner child who was hurt.
photo : dozen/Ren

622b.ren.jpg


エゴに巻き込まれそうになり、苦悶したと。
いや、巻き込まれた、だな。
 


龍と近くのスーパーへ買い物に出かけていたとき、ふいにこの探求者たちのことが思い浮かんできた。
そのときちょうどわたしはレジ近くの本棚にいた。

ふと視線が動く。
その視線の先にあったのは、子どもに対する親が読む本。

思わず「なるほど、そうだった。」とニンマリ。
手にとって見るが、家にこういう類の本があったことを思い出し、買うのをやめた。

家にあったのは、





こういうのも少しはエッセンスになる。

(傷ついた)インチャしてるそのときって、身体はたとえ大人でも、まさにわがままな幼い子ども。

その子どもは大人のように広い視野では観れないし、他者への配慮も思いやりもへったくれもない。
自分のことだけ
、になる。

そのわがままな欲求が満たされるまで、他者に関与(コントロール)しまくる。

けれど子どもなりのわがまま(エゴ)さにも理由(背景)がある。

躾(教え)が必要でもあり、気づきを促すのも、待ちながら見守るのも、こっちの学びになる。



わたしが言えるのは、自分自身が軸にいる、という格好のレッスンになるということ。
相手ではなく自分を愛す、ということをレッスンさせられる。
(これが真の他者愛。)

その姿勢が、相手さえも相手の軸に追いやることにもなるし、相手自身が自分を愛する、ということにも追い戻す。

インチャぶり(コントロール)というのは、必ずそのインチャぶりを発揮してもいい相手かどうかを見ている。
このコントロールはこういう人。
これは、ああいう人。という具合に。

甘えるのもそう。
こういう甘えは、あの人。
これは、あっちの人。という具合に。

コントロールも甘えも通用しない人には近づかない。

しかもこれらを感覚でやっているのだから、すごい。
この感覚を、ぜひ直感や霊性に使ってほしいものだと、つくづく感じる。

つまり、コントロールされるのも(よくない意味で)甘えられるのも、必ず、間違いなく、自分の弱い部分に向かってされる。引き寄せる。

引き寄せるには、必ずその弱い部分(エゴ)が自分の中で愛より大きくなっていないと引き寄せることはできない。
自覚あろうがなかろうが。
大抵は自覚がないときが多いかもしれない。
だからそれによって気づかせてくれるのだが。

人はエゴの塊ではない。
必ず愛があり、きらめく純粋さをもっている


自分が、その愛や純粋さで触れられるのか、エゴで触れられるのかは、自分次第だ。

インチャぶりや甘えも、相手によってはそれを発揮しない。
逆に、とても純粋で、素直に愛を発揮しようとする。
それはなぜか。

そして、インチャぶりばかり発揮される人と、発揮されない人とでは、同じ人物に対して、視点が違う。

発揮されてしまう人は、その人に対して視野が狭い(近視眼的)。
発揮されない人は、大らかで大きな視野をもって観ている。

逆を言えば、近視眼的視野な状態にいると、エゴっぷりを引き寄せ、大きな視野でいると、愛を引き寄せる、ということだ。
たとえ、同じ人物でも。

ということは、人は弱い部分が無ければないほどエゴを引き寄せ悩まされることはないということになる。
無ければないほど、エゴっぷりに振り回されず、また、たいして気にもならないだろう。
何より、まともに向き合って相手にしてしまうことはなくなっていくだろうから。

こんなことがある。
ある音、ある話し声。
それがやたら耳について最後には切れそうになる人と、はなから全く耳にもとまっていない人と。

大抵、気になってしょうがない時っていうのは、何かしら自分自身が、音が気になる前から神経質になっている状態が、自分にあったということだ。



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posted by dozen/Ren at 20:24| 0704 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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