2007年04月17日

菩提樹の下で

高松への合宿へ向かう道中のバスの中、もうすぐ着くであろう頃に、空海からのアクセスが入った。

0417:2007
Under the linden tree.
photo : dozen/Ren

626b.ren.jpg



その内容は、もっち、ムミヤ、沐隣、久美の4人に宛てられたものだったが、実際に直接示唆されたのはもっちとムミヤだった。
もっちブログ⇒Mの探求日記
ムミヤブログ⇒空ニ魚ノ心アリ

 


どうやら過去生の記憶を今生で神聖に活かすための、イニシエーションを行うもよう。

この4人に共通した過去生は巫女だった。
今回、その記憶と体験にフォーカスするもの。

しかし残念なことに、久美は霊性への意志を極度に欠落する選択を自らし、神聖さから離れ暮らしている。
関連日記⇒真の自己実現

沐隣は神聖さへの前進に恐れで足がすくみ、遅刻により空海からのイニシエが受けられなかった。

が、しかしその後、彼女の選択、スピリットへ沿う姿勢が神聖さへと導かれる結果となり、たくさんの学びと愛、霊的享受を得た。
のちに行われた京都カレッジの2日目の鞍馬では、スピリチュアルネームを託されている。
沐隣ブログ⇒ゆっくり行きませう




空海からの内容は、非常にアクセスが受けとりづらい中で行われ、実際にわたしの声での顕現には至らず、筆記となった。
その最中に、筆記はしなかったが、ひとつ気になるエッセンスがあった。

それは『木』。

木…、って?
で、何?

木なんて寺に入ればたくさんあるでしょうに。
で、木がなんなわけ?
木をどうするわけよ。

あ! もしや『木』じゃなく、こっちの『気』だったりして。
ならばプラーナでもするわけ?
まったく分からないまま。

なので忘れることにした。
気にかけてもしょうがない。
必要ならば促されるだろうと、ゆだねることにした。



駅前の素敵な空間に、次々と仲間が到着してくる。
わたしたちはすでに現地でお昼を済ませ、ゆっくりカフェりながらみんなを待っていた。

全員が集まったところで、もっちに電話する。
ここからすでに合宿は始まっている。

龍が言う。
「俺たちを探して。俺たちからはみんなが見えているから。」
直感が冴えている者から見つけ出すだろう。
いきなりレッスンだ。

で、いきなりみんな調和してない。
各自バラバラ。
もっちの話しも聞かず、お喋りに夢中になっている者たちもいる。

もっちの話しに耳を傾け、一早く、いや瞬時と言えるほど早くわたしたちを見つけ出したのは、トムさんだった。
トムさんブログ⇒何(にゃに)か忘れているんです;



空海が指定した通り動き到着。
現場は85番札所。
まずは、ゆっくりゆっくり散策。

どこもイニシエ場所にピン!と来ない。
そうして足を進め、本殿や他の堂を眺めるように立ち止まる。

ふいに頭が左に向かされた。
なんだなんだ?
視線先に1本の木が飛び込んで来た。
あ!!あれだぁ!

もし、期待してとても神聖っぽい(そのように肉眼的に単に見える)大きな木などを想像していたら、間違いなくこの木は見過ごしただろう木。

大木でもなく、見るからに神聖さを現しているわけでもなく、花が咲き乱れ美しい状態にいるわけでもなく。
ただ、この木は他の木と違って簡単に木の柵で囲われていた。
木が、まだ幼かった。

龍たちムミヤにも声をかけ見に行く。
みんなで「あの木って、何だろう??」と言いながら近づく。
みんな、ほんとにこの木なの?…と、キョトンとした感じでもあった。

「どっかに木の説明の札でもないの?」
「あ!あったあった。ちょっと、これ、菩提樹だってぇ。」
「へぇ!そうなのぉ?」

「菩提樹といえば確か、釈迦じゃないの?」と、ムミヤ。
「釈迦と空海とどう関係あんの?」と、クエッションになるわたし。

そこでふいに視線が上を向いた。
「あ!」
「何?蓮ちゃん。」
「見て!」
「どこ?」
「ほら、あそこ! 蝉が脱皮したあとがある。」
「ほんとだ。抜け殻だ。」

そんなやりとりしながら、ムミヤ脱皮するんだぁ。いいじゃん。と思いながらも自分の様子がおかしい。
どうやらアクセスが始まるようだ。

そうしてムミヤ、もっちは空海からメッセージを直に貰い、イニシエに入った。
菩提樹の下で。

とても神聖なメッセージでもあり、愛のこもった、また励ますような内容でもあった。
空海らしい内容だとも、わたしは感じた。
残念ながら、誰1人メモも録音もしていない。
というより、そんな猶予もなくいきなり始まったに近かった。

ムミヤは空海が好きらしく、やけに嬉しそうだった。
空海と直に交流するのは確か、2回目。
もっちはこのときが初めてだった。



のちにわたしが初めて手に取った本に、『菩提樹』について興味深い事柄が書かれていた。
空海がなぜこの木を指定し(見た限りここ以外に菩提樹は1本もなかった)、イニシエを行ったか…に、とても関連しているようにわたしは感じた。

そして振り返り気づいた。
もし、前もって「菩提樹の木です。」と言われていたら、楽しんでまったり散策どころか、木を探しまくっていた。
間違いなく、みんなでそうした予想がつく。

しかも菩提樹が実際、ああいう木だったなんて誰も知らない。
ということは、知らないまま探すしかないことになっていたところだ。
しかも菩提樹があったのは、散策の一番最後。

空海が、あえて木だとしかわたしに知らせなかったのは、本当に正解だ。
ゆだねたのもよかったと、つくづく感じた。




すべての人が一様に真理を正しく掴んでおれば、その根源を同じくすることになりはしないでしょうか。

わたしたちは普遍心、即ち神において一つではないでしょうか。
わたしたちはすべて、一つの大いなる家族ではないでしょうか。

すべての子らは、この地上に生まれ出たすべての子らは、その種族や信条はどうあろうと、この大家族の一員ではないでしょうか。



皆さんは、わたしたちが死は避け得るものと信じているかと聞いておられる。
それに対してはシッダの言葉で答えましょう。


人体は植物や動物たちの体と同じように、個々の細胞から造られていて、それは肉体の顕微鏡的な微細な単位である。

生長分裂の過程を幾度も繰り返して、この一単位の細胞の微細な核が、遂に無数の細胞となって完全な人体となる。

これらの細胞たちは、それぞれ異なった特殊な機能を営むけれども、大体においては、初めの個細胞の特質を持ち続けている。

この個細胞は、生命という炬火(タイマツ)の担い手とみなすことも出来よう。

それは世代から世代へと、潜在している神火、即ち、この地球に初めて生命が出現した時まで遡り得る、万世一系の一切の生物の活力を伝える。

この個細胞には、限りなき青春が秘められている。

ところで肉体と呼ばれている細胞群の方はどうかと言えば、
それは幾回もの増殖を繰り返した個細胞から起こったもので、個細胞の個性、例えばその一つである潜在的な生命の火、即ち、永遠の青春を保っているのである。

細胞群、すなわち肉体は、個細胞の守護役となっているが、その生存期間は皆さんがご承知のように短い。


わたしたちの古代の聖師がたは直感によって、植物と動物との生命反応が基本的には一致しているという真理を知っていた。

わたしたちにはこれらの古聖が、鬱蒼たる菩提樹の下で、弟子たち次のようにお説きになっておられる姿が、よく想像できる。


この巨大な樹を見たまえ。
我々の同胞であるこの樹と、我々自身の中の生命の営みは、基本的には同じである。

一番古い菩提樹の葉や梢の芽を見たまえ。
何という若々しさであることか。
この巨木となる前の種子だった時と同じ若さではないか。

樹と人との生命反応は同じであるから、人は樹の経験からも、学びとることができる。

この樹の若き種子から一番年古りたる巨木となっても、尚且つ、葉や梢の芽が生え出るように、
人体を形造っている細胞群も次第にその活力を失って、遂に死に至る必要はない
のであって、

卵子あるいは個細胞自体のように、若々と、また青々と伸びることもできるのである。

事実、諸君の肉体にしても、生まれ出る前の生命の種子のように、いつまでも若く、活力溢れるような生長ができないわけはないのである

菩提樹は、常に永生の象徴であり、外部からの事故以外の原因で朽死することはない

菩提樹には、細胞の生命エネルギーに有害な影響を与えるような腐朽とか、老衰とかいう自然法則があるとは考えられない。


神聖なる人体もまた、同様である。

人間の場合も事故でない限り、死や老朽というごとき自然律はあり得ない

人間の肉体または細胞群には、不可避の老化というものや、人を次第に麻痺させるようなものは何ら存在しない。

だから死という事故は、避けられるもの
である。


病とは、とりわけ安らぎからの、分離、平和の状態の欠如である。

人類には老衰の体験が共通しているが、この老衰という言葉自体が、実は老衰の原因、心と肉体との、ある病的状態についての、人間自身の無智、をかくしている。

事故でさえ、適当な精神状態にあれば、これを防ぐことができるものである。



つまり菩提樹は、これら深い意味をもっての永生の象徴であり、
また、どうすれば逆に死に至るかを露骨にも関連づけている。

これら真実は、わたしの、dozenの、またカレッジにおいての高次たちスピリットたちが促している真実でもある。
カレッジ案内⇒Love Spiritual Peace college生募集

これら真実を象徴する菩提樹の下、過去生の巫女から、その本来は持つはずだった神聖さを今生に活かすために行われたイニシエが、いかに意味深いものかが伺える。

巫女とは何だろうか。
本来の巫女というものは、神の神聖なパイプを担う存在だった。





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posted by dozen/Ren at 21:00| 0704 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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