A holy junkie.
photo : dozen/Ren

二元性を超えていく。
光ジャンキーでもなく闇ジャンキーでもなく。
そして、あるがまま(神聖)に還る。
神聖ジャンキーという言葉自身、ふさわしいのかふさわしくないのか、わたしには分からない。
するともっちがこう言った。
⇒Mの探求日記
「どんな言い方がふさわしいか気づくまで『神聖ジャンキー』でいいじゃん!」
「それいい!それ乗った!」
「俺、神聖ジャンキー宣言!」とにこにこと勢いよく手を挙げた。
沐隣もいさぎよく「神聖ジャンキー!」と、手を挙げた。
⇒ゆっくり行きませう
わたしも気持ちよく「神聖ジャンキー!」と言いながら手を挙げた。
みんなで大笑い。
光ジャンキーしているうちは闇も同じ。
闇を排他(分離)するその行為自身が闇。
闇を愛のツールとして、実際に愛で活用できるようになったら、光ジャンキーを超える。
実際に闇を愛で使うには、闇にいてはできない。
極端にいえば同じ闇で、観えないからだ。
光にいてもできない。
光で闇が観えなくなるからだ。
光も闇もその両方が、偏ることなくバランスよく観えていることが肝心になる(意識)。
光と闇、その両方を観るには、神聖さにいる必要がある。
どちらにも偏っていない(=一体化)。
そのどちらをも、愛(神聖さ)のために活かすことができる無限の愛の力が在る。
光と闇を超え、神聖さで光と闇を活用していく。
活かしていく。
そのプロセスがアセンションに在る。
光と闇を超え、神聖さで光と闇を活用していく。
それがカレッジでもある。ラブスピース。
ゆえにカレッジ(神聖)では光と闇の許容が在る。
が、しかし、その両者のバランスを欠くほどの光、あるいは闇ジャンキーは、離れていく。
バランスという調和からはずれてしまう。
光に偏りすぎる光ジャンキーも、偏りすぎれば闇となる。
光という、その偏りすぎた光で盲目に陥り、神(真)我ではなく自我の自分しか観えなくなってしまう。
バランスを欠いたがゆえに。
それでは闇も同じ。
それでは闇を愛に活かすことなどできない。
光=闇。
光と闇、その両方が在ってこそ産みだされる神聖。
光でもなく闇でもなく。
光でもあり闇でもある。
光でもないのに、闇でもないのに、光もあり闇もあるという、神聖。
在る=無。
神聖。
わたしにとっては神聖はエゴイズムも同じ。
神我自己愛だからこそ、自我自己愛を生み出せる、神聖の名のもとに。
ゆえに、神聖の名のもとに在れば、どんな自我自己愛も神聖(神我自己愛)へとへんげ(変化=変換)し、戻る(帰還)。
それが行われているのがハート(心臓)。
心臓の動きのように拡大=縮小の動きをし、それを取り囲む(守護する)肉体へと神聖は波及する。
神聖が波及されている肉体は健康(健全)が維持される。
朽ちない。
ハート(心臓)を失えば、肉体が朽ちるように、
ハート=神聖(バランス)を超えれば=失えば(離れるほど偏る)、朽ちる。
朽ちた肉体(=エネルギー)は、物理的自然界(二元性)によってリサイクルされる。
リサイクル=自然の循環(輪廻)。
輪廻を継続させているのは、神聖を見失ったもの(二元性)たち。
神聖さにいる者(例:高次)たちは言う。
輪廻=朽ちる、は、幻想、だと。



