2007年06月06日

ジャンキーがあたりまえになる時…すでに神聖だったことを知る

わたしにとって神聖があたりまえになってきている。

0605:2007
vol.2
When a junkie becomes ordinary…I already know that I was holy.
photo : dozen/Ren

644g.ren.jpg



あたりまえになってきてはいるが、『すでにすべてが神聖である』というその実際の実感を100%に味わい続けているかというと、そうではない。
 


…とすれば、本当に実感しつづけている状態、あたりまえすぎて今さら取り上げるにも至らない状態になったとき、
神聖そのものに自分はすでに在る、という100%になる


在る=無



そうなるには、この現実のわたしには実際、抵抗している部分が在る、ということを素直に認めること。

抵抗(=恐れ)しているうちは、
自分がすでに神聖さに在る、ということを本当には分からない。
実感に至らない。
当たり前に至らない。

頭では分かっている。
だが、わたしはハート(=実感)で解かりたいのだ。



ハートでない限り、神聖さを幻想だと感じている部分があるということ。

高次たちは輪廻を幻想だと言う。
しかしわたしの中で、神聖さを幻想だと感じている部分が在るということ。

…ということは、神聖さを幻想にしている分、わたしは朽ちる世界(意識)を現実だと真実だと、実感している部分があるということだ。
同意しているということだ。

朽ちる世界その意識が、その同意しているその意識の部分が、わたしの中の機能不全=エゴだということ。

朽ちる世界、朽ちる意識を、機能不全ではなく健全だと認識している。
これこそ大いに機能不全だ。

神聖さまるごとハートで実感したいくせに、すでに神聖さに在ることを実感したいのに、それを止めているのがその意識だ。



その機能不全の意識とさよならできないのはなぜ?

本当には認めていないから。
本当には降伏していないから。
それはなぜ?

実はまだ、その機能不全な意識を好んでいるから。
執着。
それが安全だと、履き違えている。

好んで好きだということは、その機能不全の意識で在ることが心地よく楽しいから。
しかしその意識は、本来の自由に至らないように制限をかけている。

…ということは、うんざりしていない。

同意(賛同)しているその機能不全の意識から、わたしはまだ学ぶことが在るということ。
その学びは、わたしを成熟へと神聖へといざなってくれる。

では、その学びを愛で学ぶのか?
それともエゴで学ぶのか?

機能不全を好んで学ぼうとしているならば、それはエゴで学ぼうとしている。
いかに、うんざりしていないかがよく分かる。

でも、今気づいた。
わたしは愛で学びたい。
過去の積み重ねから、愛で学ぶと心地いいことを知っているから。

ならば、その確信に付き従って、ゆだねてしまえばいい。

このゆだねるという動は、女性性の動。
女性性の動が機能不全の意識をもっている。

…ということは、その女性性の動と連動している男性性の受容がおかしいことが分かる。

女性性の動は本来の自己(神我)に沿う、ゆだねる、動にあるのにも関わらず、男性性の受容できなさに影響を受ける弱さ=機能不全があることが分かる。

こうやって、本来の自己(神我)=神聖に沿おうとしない部分が在ることがよく分かる。

人は知らないことが恐い。
したこともない体験をするのは恐い。
すでに知っている、馴染んでいるものに安心を抱く。
例え、知らないそこがとても心地いいよ、と言われても、その変化に入っていくのを恐がる。

これだ!!
神我より、女性性の機能不全さに慣れて馴染んでいる。
さらに神我より、男性性の機能不全さに慣れ親しんでいる。
神我は、親しくないのだ。

自我ではなく、神我が、実は自分なのに。
偽りの自分=自我の方を、真実の自分=神我より好んでいる。
親しみを感じている。

いかに自分(真実の自分=神我)を大切に扱っていない部分があるかが、分かった。

偽りの自分に親しみを抱くという機能不全の意識に、これ以上、自分をゆだね任せておくなんて、とんでもないことだ。
自分を愛そう!

自分を愛す
それはさらに真実の自分=神我を知っていくということでもある。
真実の体験を重ねていくということ。

すれば、段々、神聖(真実の自分=神我)になっていくということだ。

これはまさに!!…自己探求だ
自己探求=自己創造。

自己探求はわたしにとって、息をするごとくあたりまえだ
ごくごく自然のあたりまえの日常になっている
しかもわたしは自己探求=創造が、大の大好きだ。
楽しい!発見がいっぱい。ワクワクする。

むむ?
自己探求があたりまえなら、それは神聖もあたりまえってことじゃないか。
自己探求=神聖(真実の自分=神我を知る)なのだから。

ならばわたしはすでに毎日、まるごと人生、神聖を味わっているということじゃないか!



この真実にわたしは気づいていなかった。
なるほど、すでに神聖に生きている!
すでに神聖だった

ただ、繋がってなかっただけ。
気づいていなかっただけ。

まだ、どうにかならなければ、わたしは神聖そのものになれない…と、そう勝手に思い込んでいただけなのだ。



神聖領域にすでに存在しているじゃないか。
毎日、そこにいるじゃないか。
味わってるじゃないか。
神聖領域⇒神聖ジャンキー宣言!

ジャンキーをコミットししっかり意識(フォーカス)したら、すでに神聖だった、ということだ。
あたりまえすぎて、気づいていなかったのだ。
それが自己探求そのもの
だ。

空気になってる



わたしには実際、まだ神聖さに対して抵抗している部分が在る…と最初に書いた。

エゴで学ぶのも嫌だ、とも。

ところが分かった。
つまりこうだ。
オープンハート内なら、エゴがあってもOK!というやつだ。
自分を愛する(神聖)土壌内ならOK!なのだ


何がOKなのか。
それは愛でエゴは活用されるからだ。
神聖さで闇を活用するも同じ
なのだ。
その範囲内に、すでにいた!ということだ。



ならば、わたしは神聖さに抵抗しているんじゃない!…ということだ。
神聖さ(自分を愛す)のために、その抵抗している機能不全の意識を活用しようと、すでにしているのだ。

つまり、知らなかっただけで、気づいていなかった繋がってなかっただけで、
すでにわたしは愛で学んでいたのだ。

勘違いしていた。
思い込んでいた。
つまり、近視眼的視野にいるから、抵抗している、エゴでまなぶのか?…となるだけで、

大きな視野(二元性を超える)で観れば、
わたしはすでに愛で毎日学んでいるし、すでに神聖だったのだ




この近視眼的視野こそが、機能不全の意識だということがよくよく分かった。
これに気づいたということは、同時にリセットが始まっている!



ヒマラヤの聖者たち(まるでイエス)のようになったときに、初めて神聖だと思い込んでいた。

それはつまり、近視眼的視野(意識)で観ているからだ。
単に直線としてしかみていず、そこまでいかないと神聖には生きていないかのような、囚われた制限のある思い込み、つまり意識になってしまう



このまま神聖の土壌(領域)に立ち大きな視野を養うことにゆだねていれば、勝手に自然に自動に、聖者のようになっていくだけじゃないか。

すでにその領域に土壌に自分はいたのだ。
つまり種も、芽も、花も、見える姿が違うだけのことと同じ

しかも朽ちる土壌(領域)にではなく、神聖の土壌(領域)に自己探求がいざなってくれていた
気づけばそこにもう存在していた。
すでに健全な土壌にいたのだ。
朽ちる/健全の土壌⇒神聖ジャンキー宣言!



健康に育つに決まっているじゃないか!!!
疑う方がおかしいぐらいだ




健全のさらに質を上げるために、わたしは機能不全の意識を活用していたんだ。
肥やしみたいに

…自己探求があたりまえなら、カレッジがあたりまえ。
カレッジがあたりまえでないなら、自己探求はやっているつもり自己探求だ。

つもりは実に自我に都合がいい
自我は近視眼だ。

つもりならば、自我のままの都合のいい探求ならば、いつでもカレッジ(神聖土壌)から離れやすい状況に在る、ということだ。
つもりを維持すれば(自我=近視眼=機能不全の意識を維持すれば)、朽ちる土壌へと向かう。



カレッジ生の中からは、ラブスピースがない状態なんてもう考えられないと実感している人たちが、現実に存在している。

カレッジは何を具現しているか。
自分を愛す=神聖=自己探求、だ。

こういう人は、わたしと同じで、すでに息になっていると見受けられる。

ならば、健全に育つに決まっているじゃないか。
ヒマラヤ聖者のようになっていくに決まっているじゃないか。
しごくあたりまえの話だ。

だが、わたしもこの仲間たちも、最初からそうだったわけではない。
無理してそうなったわけでもない。

ただただ楽しいから。
それにいざなわれたようなものだ。

コチコチに凝り固まって自分を愛す!!なんてやっていない。
そんな無理(=パワー、コントロール)して力づくでなんてやっていない。

意識(フォーカス=コミット)しただけだ。
意識が継続した。

楽しいから。
いろんなことが起こるから。
感動、愛を実感することが。
変化が。気づきがいっぱいあったから。

それにいざなわれていれば継続していた。
探求もあたりまえになっていた。
自分を愛する意識も、あたりまえになっていた。

気づけば、すでに健全な土壌に存在していた。
空気だから、気づかなかった
息をするとき空気なんて意識していなくても、勝手に自動に自然にしているから。



意識して呼吸し続けていると、かえっておかしくなる。
りきむ。
頭で意識している。




まさに神聖。
まさにカレッジ。

今、足元に気づいた。
その土壌に。



そして最も大切で、最も健全に自分が育つ秘訣は、

大きな視野を養えば、大きな視野で観るようになれば、
そして大きな視野に立ってそこに存在すれば、
近視眼的視野=二元性から解き放たれる


大きな視野とは、法則で観れるようになること。
これは最も大切な【鍵】
であることに、わたしは気づいた。

なぜならわたしは常に法則を軸にしているからだ。
わたしの話には、よく出てくる。
「そこにある法則は?」
「それらの原理は同じことに気づいている?」
「飾りが違うだけ。」と。
法則の霊的目をもって生きている

変容はこの目を養う
体感とともに。



『The Secret』で法則を何とも呼べる、と言っていただろうか。
法則を、エネルギー、普遍、神、そのようにも呼べると言ってなかっただろうか?


ならばわたしは、神を軸にしているということだ。
神を軸にすることを、探求を通して変容を通して養ってきた、養い続けていっているということになる。



カレッジ生の中に、変容を恐れる者たちがいる。
ならば変容を恐れるのは、いったい何を実は恐れているのか。

それは軸に触れるのを、自分に軸を許可するのを恐れている。
その軸とは?
神(本来の自己)?法則?エネルギー(普遍=無限なる愛)?

その恐れの意識の正体は何か?

近視眼的視野(=二元性)という、機能不全の意識が恐れている。
近視眼にいるから、観えなくなってしまっている。

わたしも近視眼でいつづければ、すでに神聖だったことには気づかないままだった。



近視眼的になっていることに気づけば、気づいたそのとき目が開ける。大きな視野に。

探求はその継続、その構築をしていってくれる
そしていずれ常に鍵を持ち始め、その鍵の質は高まっていき、同時に使い方もうまくなっていく

やがてそれは、真に空(気)と同じ
あたりまえすぎて気づかないぐらいに。

息する側と空気側。
使う側と鍵側。
ただし、空気がなければ朽ちてしまう。

…ということは、使う側自身の鍵を握っているのは、使う側ではない、ということだ。


本当の自分を取り戻していく覚醒イニシエーション
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posted by dozen/Ren at 01:31| 0706 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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