2007年07月10日

第4イニシエーションを通過して

第4イニシエ(キリスト化領域)を通過して、自分の感覚がおかしかった。

0710:2007
Pass the fourth initiation.
photo : dozen/Ren

661b.ren.jpg


ゴーサウルス(わたしの第2スピリット)との融合を終えたばかりだっただけに、その違いを顕著に感じていた。
 


ゴーサウルスとの融合は今までになく実感が強かった。
それは視点の拡大。
視野の拡がりを露骨に感じるほどだった。

そのおかげで見えないものがさらによく観えるようになった。
法則のことでもある。



ところが第4を通過すると、ボッー。
ひたすらボッー。
ゆるゆる。

おかしい。今までの自分の感じがしない。

しっかりするのはもうやめよう。
もうなんとかしようなんてしたくもない。
…と、つくづく感じ始めるのが続く。

そういうことに、うんざりしている自分を知り出す。
自分の中にまだそういうものが残っていたのかと、うんざりするのだ。

もちろんこの意味は、機能不全さに対して。
神聖さに近づけば近づくほど、決して持ち込めない意味のものだ。



変容やイニシエ後に体験する気づきがシャワーのように降り注いでくる。
これも毎度、通過儀礼だ。

認める と 受容は同時に起こっていることを知る。
本当の認めるとは、本当の受容とは、を思い知らされる。
今までの理解の甘さを知ることにもなる。



その後、その本当の深さを身をもって落とし込むこととなる。
自転車に乗ったままおもいっきりこけ、身体が投げだされた。
左ひじをひどくすりむき、肩や腰、足を打撲。

この具現は、第4イニシエを通過直後の自分をそのまま現していた。

リーディングをするとこうだ。
第4を通過しその領域に入りたてのわたしは、あまりに未知の領域に不安を覚え、今までの在り方に頑なに執着する部分があった。

変わることへの怖れ(自己神聖の受容認識のなさ)だ。
すでに在るにもかかわらず、内在している神聖さを受容=認めるのが怖いのだ。
そんな力(神聖)が自分にはない・・・と思っている。

その進化には(第4領域の)まだ時間があるのにもかかわらず、すぐ目の前にその進化の光がやってきたように感じ、怖れゆえ慌ててブレーキをかけてしまった。

流れに身を委ねていればいいものを怖さゆえにぎり過ぎた右ブレーキが思いのほか強く前輪にかかってしまった。
(わたしの自転車は右ハンドルにブレーキで左にはなく、ペダルを後退させることで後輪のブレーキがかかるようになっている。)
そして高次(本来の自己)を受容することができずに大きく左に転倒。

Ren classで話したこの話を翌日、天橋立に向かいながらそのときいなかったムミヤに話していた。
ムミヤブログ⇒空ニ魚ノ心アリ
すると彼女はとてもうまい例えを出してくれた。

高速道路の例え。
進化のスピードが増せば増すほど、ほんの少しのハンドルさばきが命にかかわる事態を引き起こす

霊性の力を増しているがゆえに、大きいだけに、わずかな機能不全さえも神聖さにおいては命取りになる

もう今のわたしは、霊的には高速道路に乗っている。
まさに、の例えだった。

だが具現のわたしは普通の道で、自転車から身を投げ出される程度で済んだのが幸いだ。

このリーディングを通して再び改めて強く言われたのが、
力を抜きなさい!
ということだった。

進むにあたって力んでいる。身構えている。
これらは進化にいっさい必要ではなく、むしろ邪魔・障害となってしまう。

それはなぜか、力むとは、コントロールそのものを言い表しているからだ。
余計な力。
つまり、健全でも神聖でもなく、機能不全であり、エゴだ。
ゆえに障害となる。

実際、肉体に余計な力が加わったらどうなるか。
体はこわばるし、肩はこるし、緊張状態にあることにもなる。
まったく柔軟性に欠けていく。・・・となる。
これが霊性でも起こるのだ。

これは、なんとかしよう・・・にも繋がる。
恐いからなんとかしようとしているのだ。
神聖さが、進化が、変化が恐いのだ。

神聖へ向かう動(力)とは真逆にある。
ゆだねるの反対。




わたしはずっと未知の世界を歩き続けてきた。
そうやって歩くのにも、もう慣れたつもりでいた。
頭で考えたところで分かるわけがない。
理解をとうに超えている世界。
ゆえに固執しなくなる。

常に変化し続けることに、もう慣れたつもりでいた。
数え切れない変容、エナジーが流入する身体、イニシエートとしての学び、アクセス、エナジーの扱い、意識上昇。

人にとって未知ほど恐いものはない。
だがそれは、わたしの愛の選択の継続の結果。
常に勇気が試される。

しかしわたしはたくさんのギフトとともに、自分を取り戻し続けた。
恐いとは、あくまで機能不全の部分が反応していることがよく分かる。
それを超え、実際、愛の選択をしたらどうなったか。

ギフト三昧だ。
愛は豊かになり、もう以前の自分に戻ることが逆にどれほど恐いことかが分かる。
というか戻りようもないほどわたしは変化してしまっている。

わからないことをたくさん知ることになった。
わからないままではなく、理解できる範囲で必ず裏づけや確信にも導かれ続けた。

知れば知るほど、知らないことも知った。
自分がいかに愛されているかをわたしは実感し続けてきた。

そして気づけば高次と呼ばれるようになっていた。
だがわたしにはどこかまだ他人ごとだった。

この自我のわたしには何の力もないことをわたしは知っている
内なる神によってすべては生かされ、このわたしも生きているからだ。

内なる神・本来の自己・神我によって




進化・覚醒(本来の自己への帰還)が進むと、この自我(顕在)さえ純化されていく。
明け渡し、神聖さと共に生きる歓びを見出していく

しかし自我が神我と一致するほど完全な明け渡しには時間がかかる。

いよいよその本格的なスタートが来た。
第4を通過して分かったのは、今まではその準備だったにすぎないことだった。

キリスト化に入ってさえ、いやキリストへの成熟へと向かうからこそ、捨て去る真の本番がやってくる。

『ヒマラヤ聖者の生活探究(3)』にはこうある。
キリストとは・・・


肉体を神の真の宮、大いなる創造原理が自由に流れ廻り、また流れ出る完全なる器、ないし経路

このような自由な流通の状態にあるとき、初めて神のこの創造物(肉体)は神の姿、形として無染清浄なものとなったのである

われ神なり。
この態度をもって
、すなわち勝利に輝く神のキリスト(神人)として、現れる

このような態度を取ることによって人は、凡ゆる状況を支配する主(マスター)、すなわち勝利に輝くキリスト(神人)となるのである。

そのとき、神と人とは手に手を取って歩む、すなわち一体となったのである。

この世界には1つの原理、1人の人間があるのみ(神我一体・自他一体)である。



肉体を神の真の宮、大いなる創造原理が自由に流れ廻り、また流れ出る完全なる器、ないし経路

わたしの今の身体はすでに24時間365日、この状態にある。
その質は、さまざまである。
変容の際も、さまざまな質となる。

初めて根源と繋がりこの状態に入ったときを思い出す。
あれほど怖かったものがそれにも慣れ、このエナジーを弱く感じると心配になるほどに自分が変化した。

今年に入って2度目の繋がりがあった。
それ以来わたしのなかに流れるエナジーが増し、普通に過ごしていても手に持つものがそのエナジーで震えることもある。



わたしが何を理由にしようがブレーキをかけるということは、つまりこの流入にブレーキをかけ、エナジーを水の流れに例えるならその水の流れをせき止めようと働きかける行為と同じになる。

さらにこの本の中でこう言われる。
簡素に言えばこれら自我やどんな機能不全であろうと・・・
神我の状態を顕現(体現)できない、していないのは・・・



自分がキリスト(神我)そのものであると信じないがゆえの現象に過ぎない

自らをキリスト(神人)なりと宣言し、かつそのことを既成の事実として受けとらなければならない。

その瞬間、神我と自我は融合して1つなり(自我が溶ける)、真正なるキリスト(神我)となる。
このとき初めてキリスト(神人)が堂々と立ち現れるのである。

ゆえに1歩進め、神のキリスト(神人)ここに在りと宣言せしめよ、その瞬間、神のキリスト(神人)となったのである。

今や神の子は父なる神と一体となり、父なる神の許に直行するのである。

しかしなお、さらに1歩前進しなければならない。

これは最大の前進であり、最大の決意を要する。

なぜなら、世俗的考え方や制約からくる一切の恐怖を消除してしまわなければならないからである。

前進しなければならない


神なる本源、父なる神に直行し

前例や迷信を恐れることなく、人間の造り上げた妄信を恐れることなく、われ神なり、神と完全に合一、融合せり、われすなわち神の愛、叡智、悟性なり、髄質なり、本源にして最高原理なる力たる神のいっさいの徳となりと知り、明確に宣言しなければならないのである。

しかも全き謙虚をもって、それを自ら受け入れなければならない。

流入をもつ者こそが、神を顕現するのである。
流入を通じてこそ、神のあらゆる徳が全世界に流れ出るのである。
流入を通じてのみ、神は神自身を顕現しうる
のである。

流入者自身にとっては、不可能なことは何一つない。
おのれ自身を神と合一させれば、何一つとして不可能なものはないのである。

自分が三位一体なのである。
あなたたちは人間キリストであり、神のキリスト(神人)であり、神であり、三者すべて一体である。

聖霊はあなたたちと共にある
聖霊(ホーリー、スピリット)すなわち、創造を為す全我霊(ホーリー・アイ・スピリット、続ければホーリースピリットと発音される)は、あなた方と共にある。





わたしの第3スピリット、アゴウスが教えてくれた。
スピリットは本来人格ではない。
エナジーであること。

エナジーだとわたしたちが理解できないしにくいからと、わざとここに合わせ落とし表現することで人格が現れているかのようになると。
しかし正確には人格ではなくエナジーで、そのエナジーの特徴が現れると。

こう知ることで、改めて理解できることがあった。

それはわたしたちもエナジーであるということ。
しかし人格があるかのよう。
人間であるけれどもエネルギーでもあると、はっきり言える。

そしてまた内なる神もそう。
神はエネルギーだ。
キリストもそう。
エネルギーだ。

そしてどれも意識とも言える。



わたしのなかにずっと息づき流れているのは、まさしく神だということが、ようやくわたしはわかった。



今まで分離し意識していた。
根源と繋がりエネルギーが流入する身体となり、その流れるエネルギーをわたしは神だとは認識していなかった。

変容のたびに起きているエナジー、正確にはエナジーが変容を起こしていく、そのエネルギー(ヴァイブレーション)も24時間365日味わい続けているこのエネルギーも・・・
それは内なる神・根源だった



わたしは第4イニシエがくる前にこう言われた。
第4からは、センターにいながら生きていく。」

センターとは、軸。
軸とは法則であり、法則とはエネルギーであり、エネルギーも法則も神を指す。
神は軸でもあり、軸はまた神聖さでもある。

ソースセンターの者たち(高次)からのアクセス・共同創造、あのソースセンターの本当の意味は、『神と共に神聖さと共に生きている者』を指していたのだ。
ゆえに広範囲であり、シャンバラやホワイトブラザーフッドを包含していることが腑に落ちる。

センター=神と共に生きる
第4の領域から始まる。
本当の神への帰還が・・・。
本格化する。



ゆえに、

しかしなお、さらに1歩前進しなければならない。

これは最大の前進であり、最大の決意を要する。

なぜなら、世俗的考え方や制約からくる一切の恐怖を消除してしまわなければならないからである。

前進しなければならない。



この1歩は単なる1歩を指していない。
この1歩が、どれほど深い意味をもって語られているか・・・。



わたしは前進する。

何度転倒しようが、どれほど打撲しようが、わたしはその都度立ち上がり、必ず前進していく・・・

どれほどの怖れに震えようと、震えながらでも転倒してでも、それでもわたしは・・・愛ゆえに、進む

(つづく)


本当の自分を取り戻していく覚醒イニシエーション
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posted by dozen/Ren at 19:10| 0707 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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