2007年08月23日

聖なるリラックス

本当のリラックスとは、

神聖さをスムーズに即、体現しつづけていることだと

実感した。

0823:2007
Sacred relaxation.
photo : dozen/Ren

720b.ren.jpg


ようやくわかった。
 


神聖なるリラックスとは、本当の意味でのリラックスとは、
体現している(神聖である)こと

なぜならそれが本来の自己、本来のあるがままな自分だから。



さんざん高次たちやマイスピリットたちに言われてきた『リラックス』の実感が始まり、
ようやく真の意味での理解が始まった。

あのmummyの高速道路の例えを思い出す。

その日記⇒軽いからこそ抵抗をよりなくす
mummy blog⇒空ニ魚ノ心アリ




少しの、ほんの少しのハンドルさばきが事故となる。
スピードが高いがゆえに。
スピードが低ければ、ゆっくりであれば、ほんの少しのハンドルさばきは分からないぐらいにやや右になったか左になったかで済むだろう。

キリスト化領域はパワー(機能不全)は持ち込めない、
第4イニシエーションからは難しくなる、
何回も確認しながら進んでいきます

・・・とのアクセスがよくよくうなづける。

ほんの少しのハンドルさばきで、もう3回も事故に遭った。

・1回目は自転車で激しく転倒。

この具現により、とにかく力を抜くこと、リラックスすることをつくづく知るが、まだまだその本質の意味は分かっていない。
そして純化している顕在を認める。


・2回目は大きな段差に気づかず、右足をぐねり転倒。

かなり痛かったがこの具現がもたらしたギフトは、わたしにはかなり大きかった。
神聖さを守護するという、わたし以外の存在の、そこに隠れている不全/闇がもたらす巧みさを知る。
ゆえに守護するそのものの本質が、今までにない側面からの落とし込みが深まり、パートナー龍の、そしてアシュラムの、火の守護という役割が深まる。

また、アリス・ベイリーがイニシエーションをイエスの人生に例えて表現しているが、その第4にあたる『磔』のさまざまな霊的側面の意味をわたしは理解しはじめる。

これらの真実は、8月22日『ロウからのアクセス』でも顕著になった。
その龍日記⇒思いを口に出す



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・3回目は右背中(ハートチャクラ右横)から右首・右肩への痛み。

まるで筋違いのようなぐねったかのような、むちうちかのような。
とにかく少しでも頭が後ろに傾こうなら、首・背中に電気が走るというか激痛。

このきっかけが、dozen始まって以来の初めての内容のアクセスに驚き、アクセス終了後、その内容を伝えるかどうかに躊躇した。
スピリットに伝えてほしい・・・と言われているにも関わらず、内容が内容だけに躊躇した。
また躊躇するだけの経緯をアシュラム女子全員が持っていたために、わたしは何が愛ある最善かを考えたく、すぐに伝えることには躊躇した。

関連日記
もっちblog⇒Mの探求日記
ゆきblog⇒スピリットから伝えてもらったこと

この顕在での躊躇が、右の背中・右首への激痛への始まりだった。
横浜カレッジが3日後に迫っているというのに、この状態ではイニシエーションを動作をもって行うことは不可能。
ハグなんてとんでもない状態で、触れられるのさえ躊躇する痛み。

これではまったくイニシエートとしては機能しない。
もちろん存在するだけでもすでに意味はあるが、人の霊性によっては動作がさらに効を奏す。
それができない状態。

イニシエーションはラブスピースの軸だとも言えると高次たちから知らされている。
イニシエーションは確実に本来の自己への帰還をもたらしていく。

現にラブスピースでは日々、実証されている。
またなによりわたし自身が体験しつづけている。
(これはすべて高次たちやマイスピットたちによる直接の変容・導き・教え。人には教わったことがない。)



そして改めて知った。
顕在は確かに神聖さに沿おうと常している。
しかし顕在は神聖さを超えることはできないのだ。

なのにも関わらず、神聖さを顕在が、顕在が吟味し判断しようとする。
それは、神聖さにとってのよかれではなく、顕在にとってのよかれ・・・だという事実に気づいていない。

この顕在がやっていることは、自分にとっての愛ある都合で、決して神聖さの愛ある都合を考えているわけではない、のだ


その真実を見落としている。

それを、さも神聖さに沿っているかのように錯覚している。

真に沿う・・・とは、明け渡すことだ。
明け渡しに、顕在にとっての都合は存在しない


ゆえに改めて気づく。
どんな驚くことでも、どんなに引くことでも、即、体現。
その体現が顕在(男性性)の真の沿う
そして体現したことによって実際に起こったことを顕在は学ぶ。
それが顕在にとってのさらなる神聖への純化へのプロセス。




わたしはこの3回目で実感した。実感がスタートした。
(気づいたとたん痛みが引き始め、翌日にはかなり回復。今ではほとんど通常の状態に近い。)

ほんの少しのハンドルさばきが、神聖を体現するにどれほどの影響を与えてしまうかを。
これは自分自身へのことだ。
そしてこれは神聖への、本来の自己への、源への帰還のブロックだ。

今まで支障が出なかったことさえ、第4を通過するとそれらが顕著にリアルに表出する。

体現するのかしないのか。
進むのか進まないのか。
神聖を選択するのかしないのか。

こんなことが今までになかったほど、はっきりと顕在に・・・訪れて来る。
顕在(男性性/男性)が、直接、問われだす

さらには、自分が選択したそのものをすぐに身をもっても、味わうことにもなる。

*顕在側を意味する男性性にはもちろん不全の対になる女性性がある。
女性性はさらなる自分を愛す・・・が問われ出す。
前回はその女性性だった。
今回は男性性。




それだけではなく、霊性の質が、意味が、今までにないほど深まりだしていく。
霊性がまさに多次元になっている。
いっぺんとうな霊性の見方や、今までの在り方では通用してこなくなっているのも実感しはじめてきている。

ひとつの出来事やひとつの霊的なことは、2つも3つも霊的側面・意味を見出せるが、今ではもうそれ以上の側面が観え始め、平面や立体以上の意味が絡み合うため、
言葉以上に、もう文字にするのは難しくなっている。

いつだったかアクセスで言われていた。
「そのうち蓮は、真実を書かなくなります。日記が書けなくなっていきます。」と。



自分が体験した真実なんてとうてい書けるわけがない。
今までもこの日記にこう書いてきた。
「この日記での表現は、わたしが体験しつづけている真実のほんの数パーセントにしか過ぎない。」と。

それでも書ける分は書いてきた。
アップしていない日記もたくさんある。
先月からはさらに表層しか書けていないなと分かりつつも、書けるときは書く。
それが精一杯。

真実や霊性は成熟していく中、書く表現が今までと変わらないとしたなら、それはよりたくさんの事柄が書けなくなっているという事実でもある。




本当の霊的真実は霊性は、体験でしか、真には分からない。知れない。

つまり、自分でしか知ることができない

本や他人の真実は、自分自身の真実ではない。
本や人の真実を、まるで自分で知ったかのように味わったかのように、錯覚してはいけない。

これも、わたしの真実。





それでもなお、表現はしつづけたいと感じている。
きっと仲間たちが、仲間本人にとっての霊性とそのときの成熟をもって、わたしと仲間たちに起きている真実を書いてくれる。

人がイエスの真実を無意識にでも意識的にでもゆがめ表現したことを、わたしはつくづく自分ごとに実感している。
それはすでに、それを体験しているから。

そしてまたこのわたし自身も、真実を本当には書ききれない書けないことを体験している。
わたしにも顕在があり、顕在を超えている真実・霊性を自覚ある顕在(未熟)をもって表現するには、
それは自動的にゆがんでしまう。

そしてそれは仲間たちも同じ。



この2年以上に渡って書き綴っているわたしの日記の実際の真実は、進化していっている。
ゆえに不変なる真実を土壌に、すでに変化・進化してしまっている真実もある。
それを書き表していない事柄がたくさんあるのが自分でも残念だが、それは意図的に意味をもった必然ではないかとも感じている。

もちろん口頭ではRen classでは、話せるものは話せる範囲で話している。
それを聴き手が理解しているしていないは、聴いている聴いていないは別にして。

つまり、そういった真実は、触れられる者しか触れてはいけない真実なのかもしれない。
霊性にはなにごとも、その者の霊的準備と引き寄せ、法則が在る。
そしてなにより大切なのは、自分自身で真実を体験し知っていくことなのだ。


本当の自分を取り戻していく覚醒イニシエーション
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posted by dozen/Ren at 15:51| 0708 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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