2008年06月08日

内なる自分/神聖さをあえて忘れる

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0605:2008
vol.3
I forget inner oneself / sacredness daringly.
photo : dozen/Ren

最近、ラブスピース内で、1人よがりの守護がたてつづけに目だって起きていた。

 





自分の守護さえできていればいい、という近視眼な守護。

これは守護どころか、明らかに利己的であり不全。
ゆえに、そういう守護は、起こすと同時に、不全さに対し扉を開く
守護ではなく不全ゆえ、不全を引き寄せ繋がり合う。
しごく当たり前の話だ。

ラブスピース内の者が守護を履き違え、1人よがりな行動を振る舞い、不全さに堂々と扉を開け、招き入れる
そうして他の仲間たちに迷惑をかけるばかりか、それを聖なる内在に与えようとする。

まるでこれ以上、自分もラブスピースも純化していかないように、わざわざ不全さを招き入れるかのようだ。

これは神聖への守護ではなく、れっきとした不全への守護である。

そのことに気づかず、自分は神聖さを守護していると思いこんでいる。

結果、自分自身と仲間や他者への調和を乱し、心地よさを壊す



しかしこれらの体験がなければ自分がどんな不全さを実は隠しもっていたかには気づかない。
肝心なのは自覚できる不全さではない不全。
これが常に隠れた背後で自らに働きかけ、コントロールし支配を許している気づかぬ自分でもまたある。

この不全好きの自分が、具現によって正体がばれることになり、その不全さへの気づきや自覚を、目を覚まし起きている神聖さに沿っている顕在の自分が育てることになる。

そうしてますます顕在は純化していく。
自覚ある自分さえも、低次から高次へと移行していく


気づきがなければ、変化は在り得ないし自由もない。
隠れている不全好きの自分の側面に、支配されたまま
だ。

ただ、体験しても実感がともなわなければ意識の拡がりは少ない
意識の拡がりとは、意識拡大=意識上昇。
近視眼ではなく拡い霊的視野への移行。
これが物理にも顕現していく。

ゆえに実感しない者は何度でも繰り返しループにもて遊ばれる

その繰り返す引き寄せで気づく者もいれば、気づかない者もいる。
繰り返しているのにも関わらず気づかないのは、気づきたくない、つまり変わりたくない、という実は隠れた確固たるコミットを持っている。

周囲の仲間がエッセンスを投じても聴く耳をもたない
“聞く”耳は持っていても、“聴く”耳は持っていない。

愛より不全を選択する意志のほうが、がぜん強い状態にいる

その状態で探究していてもしんどくなるばかりだ。
ラブスピースは変わることが自然に起きる自動の場
変わる土壌で、変わらないをやるということは、流れに故意的に逆らい続け生きることになる

つまりそれは、愛を深め育てるのは嫌だ!ということ。
ここまではいいけど、ここからは嫌、というふうに自分に都合のいい自分を愛そうという探究を行う。

つまり都合のいい愛。それは愛ではない

これは自我にとって都合のいいものであって、決して本来の自己、聖なる自分の意志、真実を我がものにしていく探究ではない。

自我にとって都合が悪くなってくると、つまり不全好きの自分に都合が悪くなってくると、エゴるは止まるは戻るは、の」を行いだす。
なかには「即動!」の者もいる。

ループしながら、もうこの不全はうんざりだとこれは何度味わっても心地よくないと本当に気づき、実感が深まれば、人は素直になりだす
そういう自分を認め、そういう自分がいたと正直になりだす
もう隠さなくなっていく
それが気づきとして現れ、変化として顕れてくる

変わろう、変わりたいという愛好きな自分が、変わらない不全好きな自分を超える

スピリチュアルが好き、スピリチュアルなことをしている、
のと、
スピリチュアルを実際に生きれているのとは、同じではない
すべてはすでにスピリチュアルであること、
と、
自分がそのように目を覚まして生きているかは、同じではない



自分と内なる自分のふさわしい関係、心地よさを回復しようと保てずして、内外のone worldは起こらない。
その内なる関係の心地よさなくして、真のLoveもPeaceも在り得ない



これは何も仲間だけの話しに留まらない。
これらの件に関わることになった者やこの話しをきいたみんなの中にも在ることだ。
わたしは自分のどこにいったいあるのだろうと思う。

もちろん各自まったく同じ様ではないしスパイラルも違うが、同じ原理をもってやっている部分があるはず。

一貫しているのは、
・守護しようとし実は自分(自我のことしか考えていず利己的な不全だった、というもの。
しかも、
・全体(調和)を観ないばかりか、内なる自己の心地よさなど眼中にない
どの件も、
自我の心地よさを選択している

これは明らかに守護(神聖さ)にかこつけて自我の声を聴き、その心地よさを実現するのに動いている。
しかもそれを守護や奉仕をしていると言うばかりでなく、前もって教えてくれればできるのにと言う。
傲慢も甚だしい。

これはゆだねる、明け渡すではない。
これは探究でもない。
自分を知ることでもない。


どこかに就職して仕事の順序/やり方を教えてもらうこととはわけが違う。
マニュアルを知るのが探究ではない

探究を簡素に言えば、“未知との遭遇”“宝物探し”“冒険”自分で自分を知る自己発見の連続ともいえる。
探究とは自己創造。
その創意工夫を自ら行うのが、探究(創造)でもある。


今回の一連に起きた事柄は、
・自我にとって都合のいい守護であり奉仕だ
自我に都合が悪ければ動かない、自我の心地よさを超えたものは行わない・・・ということではないか。
不全の守護、奉仕

さらに他の一貫性が観えてきた。
さらなる一貫は、
・“内なる声”を聴いていない
・確認しようともしていない
・何を望んでいるか知ろうともしていない
・・・というどれも神聖さへの自主性の欠けたもの。

自分からは本質に近づかない。
隠しているものを自らはわざわざ開けにいかない


そしてどれもが、
・神聖さの視点にはいず、自我の視点に意識がある
低い意識のまま視点のまま、守護を行なおうとする。

守護とは神聖さ側の視点に立つことをいう

自我の都合を選択している限り、内なる声を聴こうとするはずもない。
聴けば必ず、自我の都合を超えるからだ。

・・・ということは、実は知っている・・・ということか。
神聖さならば何を望むかを、法則ならどう動くのがいいかを。

実は知ってて知らぬふり・・・。
といっても顕在は気づかない範疇

これを、「忘れている」・・・という。
本来の自分を忘れている、と同じこと


内なる自分(内なる高次/神/スピリット)と同調せずして心地いいわけがない。
そんな部分がこのわたしにもあるということだ。
ゆえに引き寄せる。
不全は、愛の合図

さぁ、どこだろう・・・必ず出てくるはず。
自主的に神聖さを法則を知ろうとしていない部分が。
そのために動こうとあえてしていない部分が。

これが探究の醍醐味、宝物探しだ。

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足このあともまださらにラブスピース内で具現は起こり続ける。
 大浄化。
 そしてわたしにも大浄化がやってくることになる。
 この浄化の波に乗れるかどうかは各自次第。
 わたしはこのチャンスを逃さないでおこう。

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posted by dozen/Ren at 16:31| 0806 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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